僕はただ、泣き叫ぶことしかできなかった



新選組がそれらしい組織へとゆるやかに変化し始めた梅雨明けのころ、隊士が増えつつある屯所内は結構てんやわんやな状態だった。私の上司である斎藤くんも最近は机に向かっていることが多く、道場ではあまり姿を見かけない。斎藤くんは3番組の組長をしているのだから平隊士である私よりも忙しいのは承知しているが、最近の彼の仕事ぶりは凄まじかった。もっとも、他の組長がサボってやらない仕事までもを斎藤くんが引き受けているからなのだが。組長である斎藤くんでさえこんな状態なのだ、新選組をまとめあげている土方さんや山南さんは一体どれだけ激務していることだろう。そう懸念して私も真面目に仕事をして上層部の負担を少しでも軽くしようとしていた、そんな時期に。


「斎藤!ちょっと借りてもいいか?」

「どうぞ、構いません」

「……は?」


今から隊務である市中巡察に出ようとしていたときだった。土方さんに急に名前を呼ばれたかと思いきや、次の瞬間には上司である斎藤くんの許可が聞こえる。私の意見など聞きもせずに話を着々と進めていくふたりを制止することは出来ず、気づけば私は半ば連行されるように土方さんの部屋へと誘導された。部屋には既に1番組の山崎さんの姿があり、しかしそれに目を見張ったのは私だけのようで、土方さんと山崎さんはそこにいるのがさも当たり前だというように微動だもしない。この面子の関係性が全く分からなくて、今から一体なにが始まるのだろうかと嫌な汗をかく。

いつもの定位置に腰を下ろした土方さんは、どこにいけばいいのか模索していた私を山崎さんの隣へと促す。言われた通りにそこへ正座すると、土方さんはまっすぐに私を見据えてきた。そして「、」と私の名前を低く呼ぶ。土方さんの真剣な瞳と静かな声に反射的に背筋を伸ばした。彼のこの態度に緊張しないわけがない。土方さんの視線に答えるように私もまっすぐ彼を見据え、そしていくらも経たないうちに土方さんは読めない表情で口を開いた。


「お前に諸士調役兼監察への移動を命じる」

「……移動、ですか?」


自分でも驚くくらい、その声は酷く不安げに響いた。それは移動するという事実になのか、移動先の職場が見たことも聞いたこともないからか、おそらく両方だと思うが、それらへの不安があったことは否めない。けれど本質はもっと違う場所にあったのだと、自分には言わずもがな分かつた。

ずっと――それは試衛館にいたときからという長い間、親しかった斎藤くんの下から離れるということ。私の本性を知られてしまったが故な場合も多かったが、そこには確かに信頼と安心感があった。忙しい土方さんに代わって私のことを気にしてくれていた彼に恋心を抱いていたわけではない、むしろ思慕のような尊敬の念のほうが強いだろう。

いままでそんな彼の傍にいたからこそ、不安で心細い。


「主に密偵や偵察……裏仕事をやってもらう」

「密偵や、偵察……」

「あぁ、屯所を離れることが多くなると思う。とりあえず実験的措置だからな……少人数精鋭になる」


どく、と脈を打つ音が次第に耳に響いてくる気がした。密偵、偵察、少人数精鋭。それらの単語を聞いて脳裏を掠めた別の言葉に息を止め、そしてゆっくりと息を吐き出した。違う、土方さんは私にいま言ったこと以外のことをしろとは言ってない。密偵や偵察、私の仕事になるのはただそれだけだ。ただそれだけ、なのに。

昔の記憶が蘇る。近くもないけれど遠くもない過去。まだ私が家にいて、母や父、御祖父様や兄がいる、……暗殺業を本業とする家の、日常。世界も正義も知らなかった幼いころとは違うが故に生まれた、違和感と常識。それらに背を向けて逃げたのは数年前、そして家と決着をつけたのはほんの半年前。記憶は鮮明で、忘れてしまいたいものまでしっかり覚えている。こんなところで発揮させる自分の能力を嘲るように笑おうとしたが、失敗してかすかに口の端が引き攣っただけだった。


「全責任者は山崎、お前に頼んでいいか」

「はっ……承りました」

「仕事が仕事たからな、中途半端な奴を入れるつもりはない。素質も実績もある奴を詰め込むつもりだ。とりあえず結葵に全指揮を任せる」

「し、指揮……?」

「……そっち関係はお前の得意分野だろ」


背筋に冷や汗を伝わせながらなんとか話についていこうと、おうむ返しのように土方さんに問いを返す。すると土方さんはまっすぐに私の瞳を見据えて、いま私が一番聞きたくなかった言葉を吐いた。私にそれを突き付けるように、現実を突き刺すように。いままで怖くて背を向けていたものに向き合えと、もう逃げることは許されないのだと言われたような気がした。すでに十分に甘えさせた、だからもう甘えさせないと。

ふる、と身体を震わせた。土方さんは卑怯で、正しい。ぐっと唾を飲み込んで、震える喉ではっきりと声に出した。


「承知、しました。諸士調役、兼……監察の、全指揮を、持たせていただきます」


振り絞るようにそう言うと、土方さんは表情も変えずにそうか、と小さく告げた。この答えに満足しているのか、していないのかもよく分からない土方さんの様子に、後悔するとかしないとか、聞いたからといってどうなるのかとか、そのようなことは一切考えずに本音が口から零れる。土方さんは、と俯きながら唐突に切り出すと、私以外のふたりは静かに視線を向けてきた。


「……俺に、どうして、欲しいんですか」


土方さんの満足する答えは、一体どれだったのか。私が求めたのはただそれだけだった。私にどうしてほしかったんだろう、私はどうすればいいんだろう。土方さんが親切に答えを返してくれる人ではないと知っていたので返事にさして期待はしていなかったのだが、彼はしっかりと返してくれた。

私が、欲しくなかった答えを。


「暗殺に長けているお前の、裏の世界で培った経験。山崎を始めとする奴らにもそれに近いものが必要とされる」

「、土方さん!」

「黙ってろ山崎。……お前にそれを指導してもらう。そのための指揮だ」


ただ淡々と述べる土方さんに私は言葉を失った。私の事情を聞いていたのか、途中で割り込んできた隣の山崎さんの空気が一瞬にして変化したのを感じる。なんで、どうしてという思いが駆け巡り、しかし実際は心が受け止めないだけで頭の中では理解していた。

土方さんの命令は絶対、それは彼が新選組全体を指揮する権利を手に入れているからという理由もあるが、実質私にとっては今までの経験からして土方さんが間違ったことをするなんて思えなかったからだ。信頼しているからこその絶対的な忠誠。新選組のみんなが私のように彼にひたすらに忠誠を誓っているわけではないが、信頼していることは間違いなかった。そうでなくては、鬼の副長という異名を持ちながらも彼が未だにその地位にいる説明がつかない。

土方さんが間違ったことを命じることなんてない、それは理解している、のだが。今彼が言った言葉は、その意味は。

私が、この私が、山崎さんを含む人たちに。闇の世界で生き残り続けるための技術を教えろと、彼は今確かにそう言った。まさかこんな言葉が土方さんから出てくるなんて思ったこともなかった、というのはやはり彼に甘えていた証拠なのか。呆然とする私に土方さんは更にたたみかけるように言葉を続けた。


「もう甘ったれんな。新選組のためなら、使えるもんはたとえお前だろうと……どんな理由があろうと利用する」

「……」

「私情なんて切り捨てろ。公私混同したら終わりだと思え。……これは命令だ」


断固たる土方さんの口調に俯かせている顔を両手で覆った。もうだめだ。私は山崎さんたちに教えてはならないことを伝えなくてはいけなくなり、彼たちもまた過酷な運命を辿ることになってしまった。ただ最後に言い訳ができるなら、それは私が望んでいたこととは全く違うことであるということ。私は、ただ。

指の隙間から零れ落ちる雫がぽたぽたと着物に垂れていく。抑えた嗚咽を漏らすと土方さんと山崎さんは静かに部屋を出ていったようだった。気配を隠すのが上手いふたりなのでそのとき彼らがどんな様子だったのかは分からない。土方さんの部屋なのに部屋に残ったのは私で、その事実に彼に申し訳なく思いつつ感謝した。こんな顔のまま廊下に出たくない、もしだれかと鉢合わせでもしたらどんな疑惑をかけられるかわかったものではない。

足を崩して額を膝に強く押し付ける。静かな部屋にひく、と震える喉で鳴いた声が響いた。


「う、っ……あぁ、ぁ……!」


抑えきれない震える声が漏れて小さな呻きとなる。これから知り合いの人たちを、私が、殺人鬼まがいのものに仕立てていくのだ。それは命令で、しかしこれを命じた土方さんにはきっと彼なりの考えがあってのことだと思う。だから私は逆らえない。

それでも。これからの事実を考えると、私は抑えた声で泣き叫ぶことしかできなかった。これは私にしかできないことで、逆らえないし逆らいたくない、けれど実行もしたくない。矛盾しているいくつもの感情が交錯する。

斎藤さんはこのことを知りながらも私を見送ってくれたのか。土方さんが昔言ってくれた『お前は家に縛られるべきじゃねぇな』という言葉は偽物だったのか。近藤さんは、左之さんは、平助くんは。これを知っているのか、そしてどう思っているのか。


「う、ぁ……っ!」


もう戻れないところまで自分は来てしまっているのだと、今更ながらに漠然と思った。




100608(しんみり、すぎてちょっと重い?なんて思ったり。私の書くヒロインはいつも最後に泣いてるような…気が…。泣き虫ではないはずなんだけどな…)