地位も名誉もいらない、
僕が欲しいものはただ一つだけ
黒嶺の次期宰相と言われる光夜さんにはそれだけの実力と信頼がある。今はまだ若く経験が乏しいのが欠点だが、それを補うための時間は十分にあった。誰もが光夜さんを次期宰相と認め、そのつもりでいる。べつに光夜さんが次期宰相になることに不満を持っているわけではない。私もそれを認めているし、そうなるのが黒嶺にとっても最善のことだと思う。光夜さん以上に次期宰相に相応しい人なんていない。
ただ、そんな光夜さんの下で彼に師事している自分がふがいないだけだ。光夜さんの部下というだけで人に顔と名前を覚えてもらえて、能力を過大評価され、そして実力に落胆される。落ちこぼれではないが秀才でもない、私はただ両親が2人とも黒嶺間者を務めていて、普通の人よりも家柄が高いだけだ。王宮の人とつり合う能力を持っているわけではない。そしてそんな私を手放さないでいる光夜さんに申し訳なくて、けれど嬉しかった。そんな彼の下で働くことが好きだった。家柄など関係ない、ただ光夜さんを尊敬した。こんな人の下で働けることが嬉しくて、誇らしくて、惨めで、それでもそんな彼に認めてもらいたかった。ただ、それだけだった。
「!」
「あ……芦琉、さま」
私の上司である光夜さんは王太子である芦琉さまと従兄弟関係にあり、それ故か芦琉さまと顔を会わす機会は多かった。一応彼は私とも血が繋がってはいるのだか、それは薄いものであって大きな理由ではないだろう。魁斗さんや零良さんを交えて談笑することも度々あるのだが、芦琉さま自身が放つひかりが眩しくて自分に卑屈になってしまう。王太子である芦琉さま、次期宰相と言われる光夜さん、黒嶺一の武人と名高い魁斗さん、女性でありながら海軍を指揮している零良さんなどすごい人たちに囲まれて生活していると、どうも自分がちっぽけに見えてならない。彼らといると情けなくて惨めで、眩しくて、羨ましかった。
大股で闊歩してくる芦琉さまに対して小さく頭を下げる。大袈裟な態度を黒嶺の人は好まず、親の都合で4年前まで朱根で生活していた私にとって、それはようやく慣れはじめた習慣であった。礼儀を重んじる朱根では考えられないほどの大雑把さに当初は困惑の毎日だったことをほんのり思い出す。慣れって怖いな、とうっすらと思いながら抱えている巻物を持ち直した。
「光夜さんならいつもの執務室に……」
「いや、光夜じゃなくてに用があるんだ」
「……私に、ですか?」
芦琉さまが私に声をかけるときはいつも光夜さんのことについての話だったので芦琉さまの返事に怪訝な顔をしながら答える。なにか間違いを犯した、というわけではないはずだ。もしあるとしてもそれが芦琉さまに経由するはずはなく、小言は光夜さんからあるに決まっている。最近は急いでいる案件もないし、国家間の問題もとくにないと聞いている。さて、私になんの用なのだろうか。
「……実はな、」
***
ばたん、と大きな音とともに光夜さんの執務室に転がりこむようにして入った。いつもは入室の許可を得てから扉を開くが、今はそんな悠長なことをしていられるほど落ち着いてはいない。入室したときに腕からいくつか巻物が転がり落ちたが、そんなこと気にしていられなかった。切れた息のまま、室内にこの部屋の主がいるのを確認すると彼をまっすぐに見据える。つかつかと歩み寄りながら「光夜さん!」と彼の名を叫ぶように呼んだ。
「聞きました!私が、ここ、を……や、め……」
勢いよく口を開いたが、言葉はやがて尻すぼみになっていく。気づいた。気づいてしまった。私が光夜さんをまっすぐに見ているように、光夜さんも私をまっすぐに見据えている。光夜さんのそのまっすぐな視線を、瞳を見て、感じる。ああ、そうか、光夜さんは。
「……光夜さん」
「なんだ」
「……私、ちっとも嬉しくないですよ。黒嶺王直属の部下だとか、そんなの、いらないです」
私を手放すこと、それが光夜さんの優しさ。時期宰相と言われる光夜さんだが、彼が宰相になるにはまだ時間がありすぎる。私は光夜さんが宰相になるまで、ずっと待っているつもりだった。たとえこの先何年も光夜さんが宰相になれなくても、いつか彼が宰相になると信じて、待っていようと思っていた。けれど光夜さんはそんな思いを抱いている私を切り捨てた、いや、掬いあげた。
つい先ほど芦琉さまに告げられた言葉が頭の中を離れない。『光夜からの推薦で、間者として黒嶺王直属の部下に入ることになると思う』、その言葉に隠された意図に、気づいてしまった。もう、待つなと。待っているのはやめて、光夜さんの部下から離れるべきだと。光夜さんからの推薦、それが意味するのは光夜さん自身がそれを望んだということ。そして芦琉さま直々に私に告げに来たということは、芦琉さまもをそれを認めている。けれどもうひとつ、気づいたことがある。なんで光夜さんが、直接私に言わなかったのか。
「私は、もういらなくなったんですか?邪魔者になりましたか?……まだ、待っていることは、できないんですか?」
「……」
光夜さんはまだ、私を手放すことを渋っている。だから自分から直接私に言えなかった。光夜さんの弱みに付け込むように、じり、と詰め寄る。
私はまだ光夜さんのそばにいたかった。それはよこしまな思いではなく、ただ、光夜さんのそばで、これから彼が創りあげていく黒嶺を見たかった。次世代である光夜さんや芦琉さま、魁斗さんが創造していく、この国の未来を。
「地位も名誉も欲しくないです。私が望むものは、ひとつだけです。……まだ、待ちたいんです」
待っていたい。いまだけではなく、これからも、ずっと。光夜さんが宰相になる、その日まで彼のそばにありたい。
光夜さんは複雑そうな面持ちで私からゆっくりと視線を外した。そしてそのまま大きく息を吐き、額に手をそえる。私はそんな光夜さんを見据えたまま、口をきつく結んだ。悔しさと哀しさと惨めさで泣きそうだった。折れて、くれるだろうか。
「……、いい加減にしろ」
「光夜さんこそ……いい加減にしてください!なんでこんなことしたんですか、私こんなこと頼んでないのに!」
「俺はお前の上司だからだよ!」
珍しく声を荒げた光夜さんにも驚いたが、彼が告げた言葉にも目を見張った。うっすらと分かるようで、分からないその言葉の真意がつかめない。光夜さんが私の上司だから、だから、なんなのだ。
「この先俺が宰相になるまで何年……何十年かかるか分からない、それなのにお前をその間ずっと俺の部下に置いておくなんて、もったいないに決まってるだろ!それにもし俺が宰相になれなかったら、なんてお前に言えばいい!それまでの時間はどうやっても戻せない、どう謝ったって償えるものじゃない!お前には俺の下で雑用ばっかりやってるよりも、間者として務めたほうが……力を、伸ばせる」
光夜さんは堰を切ったように、まくしたてるように言葉を紡いだ。こんな光夜さんは初めてで驚く一方、今何が起こっているのか頭の中の処理が追いついていかない。私のために、光夜さんは私を切り離した。それは分かる、彼が宰相となる日までにどれだけの時間が果てしなく続くのか分からない。時間は戻せるものでも進ませるものでもない、流れるように止められないものだからこそ、とても貴重なもの。
けれどそれは私にとっての、幸せだろうか。
「さっきも言ったじゃないですか!力なんていらない、そんなものは私にとって大きすぎて、必要ないんです!ただ……光夜さんが宰相になって創り上げていくこの国の未来を、貴方の部下として見たいんです!…………この話、なかったことにしてください!」
なんで分かってくれないんだろう、どうして私のことを理解しくれないんだろう。そんなやるせない思いが駆け巡った。視界が滲んではらりと雫が落ちる。光夜さんに仕えて3年、彼の前で泣くのは初めてだった。それくらい、必死だった。私が望むことは、ただ、光夜さんの下でこれからも務めていきたいことだけ、なのに。
ぼやける視界を振り払うように袖で目元を擦り、踵を返した。上司とはいえ光夜さんに泣き顔を見られるのは私の自尊心が許さない。そのまま退室しようと扉に向かって歩を進めている途中、光夜さんの吐息が小さく聞こえた。もしかしてと思って少しだけ光夜さんを振り返ると、彼は仕方ないというような、呆れたような表情をしていた。
「後悔するぞ」
「……後悔なんて、しませんよ。第一、させないでください」
強気にそう言うと、光夜さんはやはり呆れたように笑みを漏らした。その笑みが意味するもの。これからも彼の傍にいることを許された、ただそれだけの事実なのにやけに胸が詰まる。もうどうしようもなくて、嬉しくて、安心して、その場に崩れるようにしてしゃがみ込んだ。ぽろぽろと涙が頬を伝い、それを隠すように膝に額を押し付けると、やがて光夜さんが近付いてきて静かに頭を撫でられる。ごめんな、と優しい彼の謝罪がさらに胸を詰まらせた。
100522(一番需要がないんじゃないかと思われるジャンルがひとつめ…とか、ありなのか…。すみません、でもこの題は瑠璃花で書いてみたかった!)
|