いっそ何もかも捨てて逃げ出してしまいたい
「」
その声で私の名前で呼ばないでよ、何度そう思ったことか。今ではもうその回数は分からないほどになっていた。引き留められてしまう。逃げるな、と。それはまるで戒めのように、暗示のように。
「……おはよ、シリウス。機嫌はどう?」
「おい……そこは機嫌じゃなくて気分だろ、普通。それにもうおはようの時間じゃねぇぞ」
「こんちにはにはまだ若干早いからいいんだよ」
「……機嫌は上々だよ、ミス・。おはようのキスでもしようか?」
「ご遠慮させていただきます」
シリウスの戯れを呆れたように振り切るとキッチンへと向かうが、たまたま行き先が同じなのかそれとも私をからかい足りないのかシリウスは後ろからついて来た。屋敷の中はひっそりとしていて私とシリウスのたてる音以外にはなにも聞こえず、みんな出払っているのだと知ることができる。時刻は朝の10時。ちょっと寝過ぎたか、と自分に苦笑しながらキッチンに足を踏み入れた。
「他のみんなはもういないみたいだね」
「子供たちは学校、大人は仕事に買い物に……暇してるのは俺とだけみたいだな」
「嫌な言い方しないでよ、そんなだらしない人みたいな言い方は」
「事実だろ」
「……ごはん食べよー」
「おい無視かよ!」
鍋に残っていたスープに杖をひとふりして温めたものを食器によそうと、棚の中からスライスされているチーズとバケットを取り出した。別の食器にそのチーズとバケットを置いて、スープの入っている食器とともにダイニングテーブルへと向かう。何人も座ることの出来るダイニングテーブルの端のほうに日刊預言者新聞を広げているシリウスを見つけて、その向かいに食器を置いた。視界の隅を屋敷しもべ妖精であるクリーチャーが嫌そうな顔をしながら通り過ぎていく。シリウスは私の視線の先を見ると顔をしかめて「下がれ」と短く告げた。その途端にバチンッと姿現しの音がしてクリーチャーの姿が消える。見慣れた光景だ。
「なにかおかしな記事とかある?」
「いや、得に。ファッジの胡散臭い記事ならたくさんあるけど」
「今日も魔法界は平和かぁ」
「……騎士団の本部に居ながらそれを言うか?」
「ジョークだよジョーク」
「真顔で言うな」
バケットの上にチーズをのせてがぶりとかぶりつく。シリウスに見られているだろうが彼の前で女性らしく慎みを持つことなど意味がないと分かっているので遠い昔にやめてしまった。美味しくも不味くもないそれらをスープで流し込むようにしてお腹に入れると、早々と立ち上がって食器を流しへと運ぶ。モリーさんが魔法をかけてくれているのだろう、流しに置いた途端食器はひとりでに洗われて元の場所に戻っていった。
「昼過ぎになったら本部出てくから」
「昨夜遅くに帰ってきたばっかなのにか?」
「そのための遅起きなのだよ。まったく、忙しすぎて嫌になるね」
ダイニングに戻りながらぐい、と伸びをすると身体のいたるところが伸ばされて気持ち良かった。寝ていたというのに疲れがあまり取れていないと感じるのはここ最近の激務のせいだろう。私は最前線に出ることはあまりないものの情報収集やデスクワース、仲間内での情報伝達を担っているため仕事量が少ないということはないのだ。その分シリウスは本部待機でいいよなぁと思う反面、彼は彼で本部から出られないことに歯がゆさを感じていることだろうので口に出しては言わないが。
「、今お前の仕事ってなにしてんだ」
「なにって……知ってのとおり、情報関係の雑用だけど」
「……野暮なことかもしれないけど、嫌じゃないのか。騎士団に身を置く以上、生きていられる保証なんてないのに」
「嫌っていうか、なんかもうそういう問題じゃないでしょ。……なに、シリウスは私に逃げてほしいの?仕事頑張ってほしいの?」
そう尋ねるとシリウスは日刊予言者新聞に落としていた視線を一瞬チラリと私に向け、そして戻した。はぁ、と微かな溜息が聞こえる。伊達に長い付き合いではない、それには呆れも焦りも怒りも憐憫も含まれているように感じた。
「……わっかんねぇ」
そう吐き出された言葉はきっと真実なのだろう。シリウスはこう見えても貴族のお坊ちゃんで紳士だ、女性がこのようなところに身を置くということに少なからず反発を覚えるのだろう。ましてや、なにかと好意を抱いている私には。
決して自惚れているわけでもなく自意識過剰なわけでもない、それはシリウスの態度から明らかに見てとれるものなのだ。これは根拠に入るのかどうかは分からないが、学生時代には告白されて付き合ったことだってある。その付き合いは卒業してからも続いたものの、シリウスがアズカバンに入れられてからいつしか無かったものとされていた。思えばあのころが懐かしいなぁなんて昔に思いを馳せながら、私はダイニングを後にしようと扉のほうへと爪先を向ける。きっとシリウスもこんな自分を見られたくないと思っているに違いない。その辺りはぬかりなく彼のことを理解できた。
非日常の中の、かすかな日常がここにはあった。世間が闇の帝王について騒がれておりここはそれに対抗する団体の本部だというのに、確かなぬくもりがここにはあった。私だっていつ死ぬか分からないところに平気で身を置けるほど覚悟があるわけではない、何もかも捨てて逃げ出したいときだってある。それでも。
「私は逃げないよ。……シリウスが私を呼んでくれる限り、ずっと」
「どう、いう……」
「知ってる?言葉には言霊っていう力があるんだって」
自分でも支離滅裂な言葉だなと思いながら、そう言い捨てると私は扉を抜けて階段を上りはじめる。後ろから「っ!」というシリウスの声が聞こえて苦笑を漏らすが足を止めることなくそのまま自室へと入り込んだ。シリウスに対する感情に直結するものではないにしろ、シリウスから名前を呼ばれるのは嫌いじゃない。むしろ好きだ。だからこそ、それに縛り付けられるようにここから離れられない自分がいる。逃げたい、逃げたくない。逃げてもいい、逃げてはいけない。様々な思いが交錯する中、きっと私はここに残る選択肢を選ぶのだろうということはなんとなく分かっていた。
結局のところ、シリウスが私の名前を呼び続ける限り、私はここに留まり続けるしかないのだ。
110312(途中まで書いて半年ほど眠っていた作品…。最終的に言いたいことは変わってないけれど、言霊とその呪縛の件は突発的に!)
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