部屋を覗くとレインさんはソファーに座りこんで書類とにらめっこしているようで、あの人は自室にまで仕事を持ち込んでいるのかと呆れつつミニッツの長だというからにはそれ相応の仕事があるのだろうと思った。レインさんの助手である私でさえ連日激務に追われているのだ、彼が忙しくないはずなんてない。それでも彼があまり忙しそうではないという印象を持っているのは普段の行いのせいかはたまた彼の性格のせいか。 そんなことを考えながらすたすたとソファーに近づき、レインさんが私の気配に気付く前にぺしん、と手にもっていた箱を彼の鮮やかな後頭部に軽くたたき付けた。それでやっと私の存在に気付いたレインさんはソファーに座ったまま首を巡らせて後ろを振り向く。 「あれ、くん?どうしましたー?」 「……誰からもチョコがもらえない、かわいそうな上司へせめてもの慰めに来たんですよ」 「え?あ、」 ソファーをぐるりと回ってレインさんの隣まで移動してから、先程私がレインさんの後頭部を叩いた箱を差し出した。今日は2月14日、世界中の男女が心躍らせるバレンタインデー。しかし私はCZに入ってからは誰にもチョコレートをあげたことなどなく、そもそもこの壊れた世界でバレンタインを実行しようと思うほど能天気なわけでもなかった。 しかし今年は違った、10年前から意識だけ連れて来られた撫子さんが円くんに頼まれて鷹斗くんへのチョコレート作りをすることになり、それに巻き込まれたのである。私は遠慮したのだが、彼女曰く「ただ鷹斗に作るだけなんてやり甲斐がないのよ。も一緒にやってくれたほうが楽しいし、ひとりで作ったってつまらないじゃない?」らしい。鷹斗くんがちょっと可哀相なのはさておき、そんなわけで私は撫子さんの監督も兼ねて彼女とチョコレートマフィンを作ったのであった。これでも料理は人並みにできるので失敗なんてするはずはなく、綺麗に焼き上がったマフィンは今レインさんに差し出している箱の中に入っている。急なことに目を丸くして固まっているレインさんはなかなか受け取ろうとせず、いい加減差し出しているのも馬鹿らしくなってきたので書類で埋もれているテーブルに静かに置いた。 「……どういう風の吹きまわしですか?」 「ひどいですね!撫子さんに誘われて作らざるを得なかったんですよ」 どうやらレインさんはよっぽど驚いているらしく、彼らしくないぽかんとした表情で見上げてくる眼差しは困惑に満ちているようだった。そんなにも私がチョコレートを送るなんて有り得ないと思っていたのか。そのことに少々むっとしながら「要らないのならいいですけど、」と告げながらマフィンが入っている箱に手を伸ばすと、レインさんは慌てた様子でそれを否定して箱を手に取った。 「いやぁー……ありがとうございます。たまには可愛いことしてくれますねぇ」 「た、たまにはってなんですか」 「あぁすみません、いつも君は可愛いですよー」 「いや、そういうわけでもなくて、」 先程までの私に振り回されていたレインさんはどこへやら、今となっては私がレインさんにからかわれている。にこにことした笑みで可愛いなんて言われるのは気分は悪くないが、如何せん相手がレインさんなのが心臓に悪い。 そんな私をよそにレインさんは早速と言わんばかりにぱかりと箱の蓋を取ってマフィンを手に取った。レインさんは甘い物が好きだったと記憶していたので砂糖は遠慮なく使ったがチョコレートはブラックである。茶色のマフィンの側面に付いている薄い紙を剥がすと、レインさんはぱくりとマフィンにかぶりついた。そしてそのままぺろっとひとつを完食してしまうと、そばにあったタオルで汚れた手を拭きながら嬉しそうな笑みを私へと向ける。 「上出来です」 「そ、ですか」 改めて言われるとどこか気恥ずかしいものがある。子供っぽいと分かっていながらも口をつぐんでぼそぼそと返すと、レインさんはそんな私に小さく笑みを零した。そして手を伸ばしたかと思うとぐいっと私の腕を引いて、それに私は半ば倒れ込むようにレインさんの胸にダイブする。急なことに驚いて「わぁっ!」と素っ頓狂な声が思わず漏れた。 「ちょ、レインさん……?!」 「あ、いやー、……じっとしててくださいねー」 「は?!」 それはどういう意味ですか、そう問おうとするものの更にレインさんにきつく抱きしめられてそれを告げることはできなかった。ソファーに座るレインさんに抱え込まれるような形で抱きしめられ、頭は彼の胸へと押し付けられる。かろうじて呼吸は出来るもののレインさんを見上げることはできず、今彼がどんな表情をしているのかは分からなかった。部屋がやけに静かになったせいかレインさんの鼓動が耳を打つ。力一杯抵抗すれば離してもらえるだろうが不思議とそうは思わず、されるがままになっているとレインさんは小さく溜息をついたようだった。 「れ、レインさん?」 「……すみません、少々自制心を失ってしまったようです」 「へっ?」 「いや、なんでもないですよー」 いつものような苦笑を浮かべながらレインさんは私を自身から引き離した。それでも私はレインさんの両足の間に座り込んでいるので向かい合う形になる。ぱったりとレインさんと視線が合うとレインさんは心なしか引き攣った笑みを浮かべ、私がそれに小さく首を傾げると彼は「あー、もー」と自棄気味に吐き捨てて再び私を思いっきり引き寄せた。わぷ、と色気のない声が唇から漏れる。 「やめてくださいよー、ほんと、そういうの」 「な、なにがです?」 「……いや、分からなくていいです」 「えぇ?」 はあ、と先程よりも重い溜息が聞こえる。そしてふとレインさんが私を少しだけ引き離したかと思うとそっと額にキスをされた。流石にそれには驚き慌てて上半身を反らしてレインさんから距離をとると、彼はなにかを堪えるような苦笑を漏らしている。私はレインさんにキスされた額を押さえながら、かぁっと体温が上昇してゆくのを感じた。 「き、今日のレインさん、おかしいですよ!」 「誰のせいだと思ってるんですかー?」 「え、わ、私?!」 返事はなかったもののレインさんの様子でそれが当たりなのだと知ることができる。一体私が何をしたっていうんだ、いや、バレンタインだからとチョコレートマフィンを渡しはしたけれどたぶんそれは奇異な行動ではなかった筈だ、……たぶん。そう悶々と考えていたらまたもや急にレインさんに軽く手を引かれ、今度はこつんと額と額を合わせられた。さらりと触れるレインさんの前髪が少しこそばゆく、心がくすぐられたような気持ちになる。 「くんがいちいち可愛いのがいけないんですよ」 最高の殺し文句だ、そう顔を朱くしながら思い、私はレインさんの隙をみて彼の腕から逃げ出した。慌てたために転びそうになりながらもなんとか扉付近まで辿り着き部屋の中を振り返ると、レインさんは残念、と呟いて溜息を含んだ笑みを零している。私はそれに叫びにならない声をあげてから、捨て台詞として「な、なにするんですかこのロリコン!」と告げてからそのまま部屋から逃げるように出て行った。 後ろからレインさんの驚きと焦りが入り混じったような声が聞こえるがそんなものは知ったこっちゃなかった。 私は自分にとっての安穏な場所、すなわち自室に向かって一直線に駆けて行く。 この棟は重要職に就いている人たちの私室などが配置されている場所であり、また夜もだいぶ更けているからか他人とすれ違うことはなかった。 自分の部屋への廊下を進みながら、折角バレンタインのチョコレートを渡しに行ったというのにとんだことをされたと少しレインさんを恨む。 そしてそれらを心底嫌がっていない自分に驚かされたということは、誰にも見つからないうちにこっそりと心の奥に仕舞い込んだ。 マフィンの魔法
110216(大幅遅刻すみませ…!2011年バレンタイン夢は初書きレインです。口調がわからない。私にしては珍しくちょっとラブラブしているかもしれない…!わお!) |