「あ、いたいた!ビジョップ!……って、逃げないでください!」


書類の束を片手にCZ内をうろうろし初めて十数分、探していた人物であるビジョップこと円さんを見つけたのも束の間、私が呼び止めると彼はなぜか眉間に皺を寄せて数秒固まったのち、逃げるように私とは反対方向の廊下へ早足で進んでいった。走って行かないのは私に呼び止められるのが心底嫌ではないからだろう、さもなければ私が頑張って走っても追いつけるはずがない。書類の束を抱えたまま廊下を爆走して円さんのもふもふの端をキャッチするとようやく早足を止めた彼は、それでもいやそうな表情で振り返ったのだけれども、まぁそれはいつものことなのでおいといて。

切れる息がようやく落ち着いてきた頃、円さんはやれやれといったふうに息を吐いた。私の呼吸が戻るまで待ってくれていることは優しいのだが、それはまるで運動不足な私を貶しているかのように聞こえる。これくらいで息が切れるのも自分でどうかと思うが、研究員、しかもレインさんの助手なので運動してる余裕など日々ありはしないのだ。


「もう、なんで逃げるんですか!」
「書類の束を抱えたあなたに呼び止められて、いいことなんてないにきまっているからでしょう」
「まったく、察しがいいですね!」


それだけで逃げられていたのだと思うとどこか物悲しくなってくる。私は抱えていた書類の束を嫌そうな表情をしている円さんに押し付け、彼がそれを受け取ったのを確認すると先程レインさんから伝言されたことをそっくりそのまま伝えた。


「レインさんから技術関係の仕事の依頼です。明日の午前の都合のいい時にレインさんの研究室までご足労お願いします、打ち合わせがしたいそうです」
「はいはい、りょーかいしました。……まったくあの人は、なにもこんな日にまでこんな遅くまで仕事をしなくてもいいでしょうに」
「え?今日って何かありましたっけ?」


小さく呟かれた円さんの言葉に首をかしげると、逆に円さんは私の言葉に驚いたようで目を瞬かせた。そして知らないんですか、と訊ねられる。知らないもなにも、今日はなにかの記念日でもなければ祝日でもないと思うのだが。


「まぁ、あの人のことですからわざわざ言ったりはしないでしょうけど……」
「だから、なんです?もったいぶらないでくださいよ」
「いや、今日は、」


あのひとの、誕生日でしょう。そう動いた円さんの唇に、私こそ目をこれでもかというほどに見開くほど驚かされた。



***



「れっレインさん!」


慌ててレインさんの研究室に戻るとそこに他の研究員の姿はなく、レインさんひとりだけがぽつんと机に向かっていた。ふと時刻を思い出せばもう終業の時間で、それでみんなはもう帰ってしまったのかとひとりでに納得する。ちなみに終業時刻ぴったりに仕事を終えて帰る他の研究員とは違い、私はレインさんの助手ということもあって遅くまで残っていることが多かった。これでも研究者としてはなかなか優秀な実績をおさめているので自室もこの研究室からそう遠くはなく、なかなか優遇されている快適な生活を送っているのだ。

レインさんはというと私が研究室を出て行くときにも作業していた書類をまだ続けているらしく、私は彼の傍までつかつかと少々切れた息を整えながら歩み寄った。


くん、お帰りなさいー。ちゃんとビジョップに届けてくれました?」
「あ、はい、そこはぬかりなく……って、違います、違います!」
「え?なにがですー?」
「き、今日っ」
「きょう?」
「誕生日ってほんとですか?!」


私がレインさんの机に手をついてそう訊ねると、レインさんは一瞬驚いた表情をしてからふっと寛げた笑みを零した。そして「そうですよー」といつもの調子で答える。それはまるでそれがどうしたんですか、と言っているようで私はどこかやるせなくて、しかしどうしようもなくて、レインさんの机についていた手を引き取って小さく息を吐いた。こういった感情に走ってしまうことをするから、まだまだ子供だと言われるのだと分かってはいるのだが。


「誰に聞いたんです?」
「円さんに、ついさっき」
「あー、そうですよね、僕の誕生日知ってるのはキングとビジョップくらいですしー」
「なんで言ってくれなかったんです?」
「……じゃあ、なんで言わなくちゃいけなかったんです?」


突き放されたようなその言葉に、ぐ、と言葉に詰まって唇をつぐんだ。たまにこういう意地悪なことをしてくるから、レインさんはタチが悪いのだと思う。私が答えられないと分かっていて彼はこんなことを言ってくるのだから。私は半分泣きそうになりながら必死で何を返そうか考えていると、それまでにこにこしていたレインさんは表情を一変させて苦笑を零しながら立ち上がり、そのまま私の隣まで来るとそっと私の頭の上に掌をのせた。


「すみません、意地悪しちゃいましたねー。わ、わ、泣かないでくださいよー」
「れ、レインさんが、そういうこと言うから……!」
「すみませんー、誕生日って、あんまりいい思い出がないものですから……ほら、泣き止んでくださいってー」
「な、泣いてなんていません!」
「泣いてますよ」
「れ、レインさんのほうがよっぽど泣きそうです!」


よしよしと子供のようにあやされるそれが恥ずかしくてそんなことを口走ると、あながち嘘でもなかったのかレインさんはハッと一瞬動きを止めて、そして本当に泣きそうな顔で微笑んだ。いけないことを言ってしまっただろうかとヒヤリとしたものが背筋を伝ったが、それは急にレインさんに抱きしめられて確かめる術はなくなる。その急な行為に驚いてなにも出来ずにいると、レインさんはぽつりと、零した。


「大切な人が、肝心な誕生日にいないことが、怖いんです」
「……だ、からって、なにも……言わないのは、ずるいとおもいます」
「期待のあとの失望は、誰だって嫌でしょう?初めから期待しないほうが、自分にとって好都合なんですよ」
「で、でも、……私は、ここにいます。レインさんの大切な誕生日に、お祝いしてあげたいって思います」
「ほんとですかー?まぁ、残り数時間しかないですけどー」
「れ、レインさんが、言ってくれなかったから!」


いつもは私を甘やかして慰めてくれるレインさんが、珍しく私に心のうちを吐露しているそのこと自体に驚いたが、その内容にもまた驚かされた。レインさんの過去になにがあったかはよく知らないが、彼の誕生日になにかしら事件が起こり、そして大切な人を失ったのだろうか。どうにせよ、彼が求めているのは“誕生日に大切な人とともにいること”。

その“大切な人”の中に私が入っているかどうかは分からないが、入っていることを願いつつそっとレインさんの背中に腕を回した。薬品のにおいと、甘いお菓子のにおいと、洗剤のにおいと。そして、レインさんのにおいがする。レインさんの白衣に顔をうずめながら、お誕生日おめでとうございます、とくぐもった声で呟いた。そして心の中で、来年からはちゃんとお祝いしてあげますからねと、彼に向かって囁く。無論、レインさんからの返事なんてなかったけれど。

どうか来年の今日も、レインさんの隣に私がありますように。そう思いながら、私はひとり静かにかわいそうな彼の誕生日を心の中で強く祈った。




いつかのしあわせなのために




110602(ギリギリで遅刻いやいや余裕で遅刻なレインお誕生日おめでとう!な小説でした。どこがや(…) 幸せなのを書こうとしていたはずなんだけどな。いつのまにかこんな暗いお話に。あれれ。ヒロインちゃんと一緒に乗り越え、いつかレインが笑顔で自分自身の誕生日をお祝いできるようになっていることを願って。)