隣に住んでいる九楼さんとやらは、噂によるとどうやら大きな財閥の箱入り娘らしい。そんな立派なひとがなぜこの安いアパートに住んでいるのかは分からなかったが、近所のお喋り好きなマダムたちでも詳しいことは知らないようだった。どうやらその箱入り娘とやらは大層取っ付きにくい性格をしているらしく、話し掛けても愛想がよくないんだとか。 噂は様々であるが、本当のところ彼女がどういった人物なのかはよく知らなかった。なぜならば、隣人といえど、彼女とは引っ越ししてきた際に挨拶をしたきりなのである。その時もあまり愛想がよくないなと思ったものの、緊張しているのか、はたまた隣人が日本人ではないことに驚いているだけだと思っていたのだ。 しかしマダムたちの噂によるとそうでもないらしく、あれが彼女の普通なのだという。財閥のお嬢様だからってあれはないんじゃないかしら、とたまたまスーパーの帰りに出会った田中さんの話を聞きながら帰路を辿っていた。 「きっと初めてなことばかりで、いろいろ不安なんじゃないですかー?優しくしてあげましょうよー、田中さん」 「まァ、そうなんだけどねぇ。リンドバーグさんは優しいわねぇ」 「…そうでもないですよー」 あぁそういえば聞いた?4階の上原さんのとこのミケちゃん、子猫7匹も生んだんですってぇ!飼い主探してるみたいだけど、リンドバーグさんは子猫どう?あー、ホラ、僕は長期間家空けること多いんでペットは飼わないって決めてるんですよー。あらぁ、じゃあ子猫飼ってくれそうなお知り合いは?あー、同僚に聞いてみましょうか?まぁ彼、猫ってよりキツネですけどー。キツネ?いえいえ、なんでもないですー。 よくあるような世間話をしていたらあっという間にアパートに着いてしまった。結局隣人についての新たな情報はなかったな、と思いながらエレベーターのボタンを押す。ちなみに田中さんはダイエットだと言って階段で先に行ってしまった。女性は大変だ。 「…あ、」 「え?」 「あー、こんばんは、九楼さんー」 開いたエレベーターから出てきたのは、つい先程まで思い浮かべていた隣人だった。彼女は一瞬驚いたような顔をしたけれど、すぐに無表情を取り繕うと「…今晩は」と呟く。そして俯いたままエレベーターから降りてきた。相変わらず手触りのよさそうな洋服に、手には小さなトートバッグを持っている。うん、良家のお嬢様ってかんじだ。 「どこか行くんですかー?もう日も暮れかけてますし、若い女性が一人で出歩くのはよしたほうがいいですよー」 「…食材切らしてるの、忘れてたんです」 「明日、また明るいうちにってのはどうです?」 「…今夜のご飯がないんですよ。買いに行かないと」 「危ないですよー」 「…そんなに私を行かせたくないんですか?」 「えぇ。最近本当に、夜になると治安悪いみたいですから」 これは本当である。最近、夜になると不審者だとか痴漢だとか、そういった類の物騒な事件がよく起こっていると聞いていた。ちなみにこれはひとつ下の階の山下さん情報である。九楼さんは最近越してきたばかりだが、如何せん彼女も一人暮らしの身だ。この事実を知らないわけではないのだろう、彼女は少し怖じけづいたようにパンプスで床をザリ、と擦った。 「なんなら夕食御馳走しますから、買い物は諦めてくれませんかー?もし貴女に何かあったら、隣人として後味悪いですからねぇ」 「そ、うですけど…」 「けど?」 「…悪いです」 「夕食ですか?それならお気になさらずー、食材に問題はないので」 正直なところ、九楼さんに対しての好奇心から出てきた台詞だった。九楼さんのことをもっと知りたい、と言えばあからさますぎて怪しいかもしれないが、彼女について興味があるのは確かである。隣人とコミュニケーションを取る、というのは建前でしかないとしても又とない機会ではないだろうか。根掘り葉掘り聞き出そうというつもりは無いけれど、突けば面白い話が聞けそうだなとは思っていた。性悪なのは自覚済みだ。 少し戸惑っていたものの、九楼さんは「…それなら、」と渋々といったように承諾してくれた。彼女も日が暮れかかっている中、こんな物騒な話をした後に、スーパーまで買い物に行くのはあまり乗り気ではなかったのだろう。エレベーターに足を踏み入れた僕に続いて、九楼さんもエレベーターに乗り込んだ。自分達が住まう階の数字が書いてあるボタンを押すと、慣れた浮遊感に心がぞくぞくと高鳴る。秘密に包まれた世間知らずの箱入り娘を暴く時がきたのだと、悪戯な心が震えた。 目的の階に着くと、先にエレベーターを出て九楼さんの部屋とは反対方向に向かった。後ろからついてくる足音を確認してから、部屋のドアノブに鍵を差し込んでガチャリと回す。ドアを開けてどうぞと九楼さんを部屋に促せば、彼女は少し戸惑うように足を踏み入れた。別に変なことをするつもりは無いものの、妙な興奮が身体を伝う。 「…物が少ないんですね」 「よく言われますー。家を開けることが多いので、最低限しか置いてないんですよー」 そう、と九楼さんはキョロキョロと部屋を見渡しながら呟いた。見られて困るものはないとしても、そうキョロキョロと見られると少し恥ずかしい。スーパーの袋から生物とアイスを取り出して冷蔵庫に仕舞うと、未だにダイニング兼リビングをうろうろと物色している九楼さんに声を飛ばした。 「好き嫌いはありますかー?」 「…いいえ」 「じゃあ、今日はオムライスとオニオンスープにしましょうかー。2人分以上の食事作るの久しぶりですねぇ」 準備を始めると、背中から九楼さんのおどおどとした視線を感じて思わず口角が釣り上がった。まるで子ウサギのようだと、彼女のことを思う。これからのことなど予想していない彼女を、どうやって突いていこうかと考えると笑みさえ漏れ出てきた。 後ろを振り返り、適当に待っていてくださいー、と笑顔を振り撒きながら九楼さんに告げる。釣られるようににこりと笑みを漏らした九楼さんに、心の中に住み着いている悪魔が喜声をあげたような気がした。 (九楼さん、お仕事はなにしてるんですー?) (え?せ、接客業…) (では、恋人は?) (えっ?!) (あ、ウサギは好きですかー?) (……?!) 120526(素敵な企画に参加させていただき、ありがとうございました! 現代社会人・隣人パロ、でしたが、あんまり…社会人要素も隣人要素もない話に…しかもレインさん黒い…。笑 ずばぬけた頭脳を持つ彼でありますが、こういう日常的なご近所付き合いをしているレインさんも素敵だと思います。キツネの同僚は例のあの方です。 甘さなんてまったくありませんが、楽しんでいただけたなら幸いであります。 レインさん、お誕生日おめでとうございます!生まれてきてくれて、ありがとう。material...Sky Ruins) |