(あ…また誰か来てる) ふとリュウさんを視界に入れると、彼のすぐそばには台湾支部の男性職員の方が見えた。今日はずっとそうだ。いつもは一匹狼なリュウさんだが、なぜか今日は彼のもとによく人が訪れている。怪しまれない程度にその様子を窺っていると、職員の方は最後にぽんとリュウさんの肩を叩いて去って行った。 リュウさんの性格を考えるといつもなら嫌がりそうだが、今日のリュウさんは嫌がる素振りを見せるものの心底嫌がっているようには見えない。私はこれでもリュウさんの日本滞在中の世話役という任務を上から仰せつかっているのだ、たった数日間ではあるが彼がどんな人物なのかはおおよそ分かっているつもりだった。だからこそ普段のリュウさんとは異なるその態度に訝しげに首を傾げながら、それを悟られぬように彼から視線を外して書類仕事を再開する。なにか私の知らない良いことでもあったのだろうかと、適当な予想をつけながら手元の書面の文字をなぞった。 そしてその十数分後、私と同様静かに書類を捌いていたリュウさんだったが、「ちょっと出てくる」と私に短く告げて部屋を出ていく。直前に通信機で誰かと連絡を取っていたようなので急な会議でも入ったのだろうかと思い、私は書類を手にしたまま「はい」と返事をして彼を見送った。 別にリュウさんや台湾支部の方を非難するつもりは全くないのだが、ここ数日リュウさんの世話役として彼や奥村さんと外任務ばかりしていたため書類が溜まっているのだ。日ごろのデスクワークは勿論、日本は文書主義なので、外任務をやった分その報告などの書類を捌かなくてはならない。私はこれが普通だと思っており慣れているので平気なのだが、海外から短期出張でここにいるリュウさんや台湾支部の職員の方々にとっては多少なりとも苦痛だろうな、と溜息をついた。 久しぶりに長時間事務仕事をして少し疲れたかもしれない。そう思いながら手元の書類を一旦机に置いたときだった。 「劉!…ア、…劉、は、どこ、ですか?」 「え?…今、ちょっと出ていますが」 部屋のドアからひょっこりと顔を出したのは、何度か見かけたことがある台湾支部の女性職員の方だった。綺麗な髪をなびかせながら室内を見渡し、リュウさんがいないことを知ると私のほうをくるりと向く。カタコトではあったが日本語でリュウさんの居場所を尋ねられ、具体的な居場所を知らない私はとりあえず彼が今ここにいないことを告げた。だがドアの前の女性は私の日本語が分からなかったらしく、少し困ったように微笑んで「シェイシェイ」と私にお礼を言って踵を返す。彼女が振り返ったときに手に小さな紙袋を持っているのが見え、リュウさんに差し入れだったのだろうかと思いつつ、あまりよくない感情が自身に渦巻いているのを感じた。 ばかだなぁ、と自分に向かってぽつりと呟く。その言葉は静かに溶けるようにして空間に呑みこまれていくように感じた。このままこの感情も溶け消えてなくなってしまえばいいのに。そう思いながら嫌々書類を再び手に取る。 リュウさんが日本支部にいるのはお祭りが終わるまでのしばらくの間だけだ。それは重々承知している。だが、心というものは頭で分かっていてもどうしようもない。またそれも、重々承知していた。このままリュウさんのことを想っていても辛いのは自分であり、いいことなんておそらくひとつもない。お祭りが終わったらリュウさんは台湾支部に帰ってしまい、きっと私と彼の関係はそれっきりなのだ。私はリュウさんの中で“日本でなにかと周りをウロチョロしていた女”であり、それ以上にもそれ以下にもなり得ることはないだろう。けれど、それでいいのかもしれない。私もリュウさんのことを“一時期ちょっと気になっていた海外の祓魔師さん”として心の中に横たわらせ、やがて彼は少しずつ私の中で“過去のひと”になっていくのだ。そうやって、恋にすらならなかった淡い想いがひとつ増えるのも、そう悪くはない。そう思っていると、不意にドアが開きリュウさんが入ってきた。私は今彼のことについて考えていたことも相まって、急なことに驚いて手を滑らせてしまい書類が音をたてて床に広がる。 「…」 「…」 「あ、す、すみません!」 数拍呆然としていた私だったが、リュウさんに声をかけられて正気を取り戻すとすぐさま散らばった書類を集め始めた。しゃがみ込んで地道に一枚一枚拾っていると、頭上からリュウさんの溜息が聞こえて「何をやってるんだ」と呆れた言葉が聞こえる。自分のことながら尤もだと思い反論せずにもくもくと書類を集めていると、リュウさんは彼の周辺にまでいってしまっていた書類を数枚拾ってくれて私に差し出してくれた。 私はそれを「ありがとうございます」とお礼を告げて受け取ろうと手を伸ばし、その瞬間にふと彼が部屋を出ていったときには持っていなかったものを見てしまった。小さな紙袋。先程部屋にやってきた女性が持っていたものだと一目見て分かった。 あまり凝視しているのも失礼だと思い私はすぐに視線を外したつもりだったのだが、リュウさんは私が彼の手元の紙袋を見ていたことに気付いたらしい。リュウさんはあぁ、と思い出したように声を漏らしながら私に書類を押し付けた。 「俺に客があったらしいな。会えたから問題ないぞ」 「あ…はい」 私はなんとか返事をしながら、押しつけられた書類を受け取る。くしゃりと自分の表情が歪んでいくのが分かったが、リュウさんは私が書類を受け取ると同時にくるりと私に背を向けたのでそれを見られることはなかった。それに安堵しつつ、落ちつけ、とまるで自己暗示のように心の中でひたすら唱える。これくらいで心を乱してどうする、上一級祓魔師でしょう、私。 そうやって心を落ち着かせ、私は手元の書類を数える振りをしながらリュウさんのほうを見ずに話題を持ちかけた。 「先程の方、綺麗でしたね」 「まぁ、そうかもしれないな」 「…彼女ですか?」 おそるおそる、けれどその感情を声色には出さないように気をつけながら核心に迫る問いを投げかけると、ガサガサというリュウさんが書類を漁っていた音がぴたりと止んだ。実際にはリュウさんに背中を向けているため分からないが、彼の視線を背中越しに感じたような気がしてぴりりと背筋を緊張が伝う。 「なぜそう思った」 「え…だって、その紙袋…差し入れかなにかかな、と…」 「だとしたらなんだ」 「あ、いや…ええと…素敵な方ですね…」 なんだこれ。結局私は自分で自分の首を絞めているだけではないか。そう思ったものの時はもう既に遅く、私は片手で手元の書類の角をいじりながらぼそぼそと答えた。でもまぁいいか、リュウさんに既に恋人がいるということが事実ならば、思いの他あっさりとこの想いを捨てることができるかもしれない。自分の心も未来も未知数ではあったが、この事実を知らないでずるずる想いを引きずっていくよりかはずっとマシなはずだ。 そう思い自分の机に戻ろうかと瞳を伏せながら振り返ると、そこにはいつのまにかリュウさんが立っていた。どうして、さっきまで、奥の机で書類を漁っていたんじゃないのか。 そう思うものの、上一級祓魔師である彼にそれは愚問であるということは明白だった。いくら私が彼と同じ上一級祓魔師であるとしても年の功は埋められるものではなく、また自分の今の心理状況を思えば当然のことである。 迂闊だった、と数秒前の自分を後悔しつつ、奇声こそ上げずにすんだものの驚きで硬直している身体はすぐには動かなかった。あ、と思っているうちにリュウさんに指で顎を掬い取られる。少し屈んだリュウさんが私と目線を合わせ、近すぎるその距離に眩暈がしそうだった。 「残念だったな」 「え…」 「あいつはただの仕事仲間だ」 「じゃあ、あの紙袋は…?」 「さぁ?プレゼントだと言っていたが中身は知らん」 「…プレゼント?」 「今日は俺の誕生日らしいからな」 「たっ…」 誕生日なんですか、という言葉はリュウさんによって遮られた。詳しく言えば、リュウさんの唇によって、だ。突然キスをされた私は目を瞑ることも忘れ、途端に手に持っていた書類を再び床にバサァッっとばらまいてしまう。ほんの数秒だけ触れていたリュウさんの唇は、最後に私の唇をぺろりと舐めて離れていった。 それまで呆然としていた私の頭はその感触に一気に我に返り、顔に熱が集中するのを自覚しながら右手で自分の口元を覆った。そしてリュウさんから距離を取ろうと後ずさるものの、いつのまにかリュウさんは私の腰にがっちりと腕を回しており、逃げようとする私を見てリュウさんは至極楽しそうに口端を持ち上げる。その笑みにぞくりと背中を伝ったのは一種の恐怖か、それとも快感か。私には何がなんだか分からなかった。 「なに、するんですか…!」 「妬いたんだろう?」 「な、なにをっ、」 「見え透いた嘘をつくな」 「嘘なんか…」 そう言ったところで口元を覆っていた右手を取られ、思わず口をつぐんだ。リュウさんはそんな私の反応に喉の奥で笑みを零しながら、もう片方の腕でさらに私の腰を引き寄せる。私はこれ以上近づいてたまるかと背中をのけぞり返すものの、その分だけリュウさんも上半身を傾けるのでまるで意味がなかった。むしろ先程より密着するような体制になってしまい、羞恥で泣きそうになる。もう、勘弁して。 「、俺に言うことがあるだろう?」 「い、言うこと…?」 「あぁ」 「……は、離してください」 「何をとぼけている。今日は何の日だ」 「…お誕生日、おめでとうございます。でもプレゼントは準備してませんよ」 「お前がいれば事足りる」 「は?どういう、」 リュウさんの言葉の意味が分からず聞き返そうとするが、それを言っている途中で私の腰に回っていたリュウさんの腕が私の背中まで移動し、急に距離を縮められる。一瞬なにが起こったのか分からなかったが、耳元にリュウさんの静かな息を感じ、一気に体中の熱が上がったような気がした。いつしか離されていた私の右手は行き場を失い、うろうろと空中を彷徨う。 「…目を閉じろ」 「い、いや、です」 「ほう?お前は見つめあったまま口付けをするのを好むか」 「そ、そんな趣味ありません!」 「なら言うとおりにしろ」 それ自体を拒む選択肢はないのかと思いつつ、今この場で目を瞑ったら終わりだと自身を奮い立たせるが、先程から耳にかかるリュウさんに息に羞恥で目を細めた。これもリュウさんの作戦なのだろうか、そう思いながら目を瞑るものかと踏ん張っていると、リュウさんは私から少し顔を離して「強情な女だな」とぽつりと告げる。 それに反論しようと口を開きかけたそのとき、リュウさんの顔が近付きこめかみに柔かい感触が触れた。それが彼の唇だと分かった途端に身体中を強張らせると、まるでリュウさんは私の強張りを解くかのように優しく唇を瞼から頬、頬から耳へと伝わらせる。その優しさに、胸の高鳴りに、自分がどうにかなってしまいそうで、私は再び口を引き結んで羞恥で涙が滲む目を細めた。 「…もう一度だけ言う。目を閉じろ」 優しくて、言葉通りの無理強いなんてまったく感じないリュウさんの声に、私はゆるゆると目を閉じながら小さく口を開く。 「リュウさん、お誕生日、おめでどう、ございます」 「あぁ」 「あの、プレゼント、」 「これで十分だ」 「あの、」 「…いい加減口を閉じろ」 小さく震える唇をゆっくりと閉じると、最後にリュウさんの「好きだ」という呟きが聞こえて、唇が合わさった。 130112(福寿草は1月12日の誕生花。花言葉は「永久の幸福」などなど。Happy birthday to Ryu!) |