梅のかおりがする。そう思ってふらふらと匂いを辿っていると、出張所の裏口のそばに低い梅の木があった。スン、と鼻を鳴らすとより強く匂うそのかおりに、つられるようにして空を見上げる。青かった。なんて青い、春の空なんだろう。

高層ビルが建ち並び、空の面積が限りなく狭い東京からは見ることのかなわなかった空がここにはあった。視界の邪魔をするのはビルや電線ではなく、生い茂る緑。春の訪れに慌てて芽を出した桜の蕾は、まだ膨らむという段階にまで達していなかった。

あと何週間したら桜が咲くんだろう。東京では思いさえしなかった、ゆるやかな時の流れを感じた。澄み渡る青い空、鮮やかなピンクの花を咲かせる梅。あぁ、春だ。春が来た。

「ん?か?」
「じゅっ、うぞうさん!」

少し離れたところから名前を呼ばれ、物思いに耽っていた意識を慌てて現実に引き戻した。振り返った先には思った通り、柔造さんがいる。手にスーパーの袋を持っているので何かの買い出しにでも行っていたのだろうかと思っていると、思わぬことに柔造さんは私の方へと寄ってきた。少し慌てるが、逃げ場は勿論のこと、逃げる理由もありはしないのでおとなしく彼が来るのを待つ。

「なんか悩み事でもあるんか?」
「え?」

柔造さんは隣に来てしばらく黙っていたかと思うと、唐突にそんなことを聞いてきた。私は言われたことを頭の中で繰り返しながら、悩み事、と音には出さずに唇だけで呟く。

「なんや、ぼーっとして梅見とったさかい、悩み事でもあるんかなぁ思て。…あ、ないんやったらええし、無理矢理聞き出そうとしとるわけでもないえ?」

あんま気にせんでええ、と苦笑と共に告げた彼の言葉が終わる前に、私は「確かに、」と小さく呟いた。

「悩み事がないわけじゃないですよ、私も人間ですから。でも、それは微々たるもので…」

例えば、どうしたら柔造さんにもっと近付けるか。どうしたらもっとお話できるか、どうしたらもっとその笑顔を見られるか。くだらないものが多いけれど、悩みというものが尽きることはないだろう。

柔造さんの視線を感じながら、「けれど、」と続ける。

「ここに来て、京都出張所に来て、始めてこんなに広い空を見ました。空の青さを知りました。梅が咲く瞬間を感じました。…ここに来て、始めて、おだやかなときの流れに耳を澄ますことができたような気がします」

ふと振り向くと、そこには恥ずかしそうに、けれど誇らしげに微笑んでいる柔造さんがいた。つられるように私も笑みを零す。このおひさまのような彼の笑顔が、私はとても好きだ。

「幸せだなぁって、思ったんです」
「…ええ子やなぁ、は」
「そうですか?綺麗事だと笑われると思ったんですが」
「笑わへんよ。例え綺麗事でも…俺は、ええなぁって、思う。俺はそんなが、」

瞬間、強い春風が青い空を駆け抜けた。その音に掻き消されて聞き取れなかった柔造さんの呟きに、聞こえませんでしたと言うわけにもいかず。口をもごもごとさせていると、柔造さんは「ん?」と先程と変わらぬおひさまのような笑みを私に寄越した。

「あ、い、いえ」

なにも、と告げて自分の視線を梅の木へと戻した。柔造さんのからかうような笑みが聞こえる。はおもろいなぁ、という呟きに、いやいや柔造さんのほうがおもしろいですからと心の中でツッコミを入れた。

ひらりと一枚の花弁が舞い上がる。冬の雪の重みに堪え、いきいきと芽を生やし、誇らしげに花を咲かせ潔く散るその姿に、胸の奥でせつなさが小さくうずいた。あぁ、春だ。




春霞のゆめ




120406