ようやく寒々しい風とおさらばして、温かい陽気が満ち溢れる日の方が多くなってきた春の始め。昨日までは寒波のおかげで冷たい風が吹いていたものの、今朝のお天気お姉さんは今日からはこれまでと打って変わって春らしい気候になると言っていた。あながちその言葉は間違いではないのだろう、昨日まで立ち込めていた暗雲はどこへやら、今日はまさに真っ青と形容するのがふさわしいような雲ひとつない青空だ。朝の駅のホームに人はまばらであるが、この春の日差しのおかげでどことなく明るく見える。これこそまさに春マジックだ。

「あったかーい……」

ぽかぽかとしたやわらかな日差しは春の訪れをゆっくりと知らせてくれる。桜の花びらはもう散りつつあるものの、春はまだまだこれからなのだ。今はセーターの上にブレザーを着て丁度いいが、あと数週間もすればこの格好も暑く感じてくるだろう。寒いのも困るが熱いのも困る、ずっと今みたいな陽気が続けばいいのに。そう思いながら欠伸を噛み殺した。

そうこうしている間にいつも通りの時間に電車がやってくる。ゆっくりとなって走ってきた電車の中を見やると、今日もいつもと変わらない程度には混んでいるようだった。私の家からの最寄の駅は小さくて利用者が少なく、また大都市より少し離れたところにあるため電車の混みようもひどくはない。それゆえ朝は立ちっぱなしということは少なく、座席に座れることの方が多かった。私は学校に向かうために約40分ほど電車に揺られているため、それはありがたいことこの上ない。

そして私が座るのは2両目の左側の後ろから3つ目の座席と決まっている。そこにはいつも先客が居て、その人は窓側に座っているため私は毎日通路側に座っていた。その先客は私の最寄の駅から3つ目の駅でいつも降りる、この辺りでは有名な進学校の男子制服を身にまとった高校生。彼はいつも静かに小説を読んでいるか携帯を弄っているかで、しかし定期テストが近くなると教科書やワークを見ていることだってあった。名前は知らない。声も少ししか聞いたことがない。どこから乗っているのかも分からない。明らかに私の彼に対する情報は不足していた。けれど私はそんな彼に、恋というものをしているのだ。





春色模様






私が乗車してから一つ目の駅を通り過ぎる。名前も知らない彼はいつも私が乗車してから3つ目の駅で降りるため、こうして近くにいれるのは本当にかすかな時間しかなかった。今日の隣の彼は小説を読んでいるみたいで時折紙が擦れる音がしている。藍色の髪が邪魔をして表情はちらりとも見ることはできなかったが、雰囲気でいかに真面目に読書をしているのかは伝わってくきた。その隣で私は朝の小テスト対策のための単語帳を広げる。パラリとページを捲ると指が彼の服の端に小さく当たって、かすかに指先を振るわせた。きっとこんなささいな私のドキドキになど彼は気付いていないだろうが、そんなことはどうでもいい。彼が隣にいること、かすかな時間だけれども一緒にいられること、そのことでもう十分なのだということは分かっていた。

そうこうしているうちに二つ目の駅を通り過ぎた。あと一駅、と毎日思うことを今日も思いながら単語帳を捲っては意味を確認し、捲っては意味を確認するという地道な動作を繰り返す。勿論隣の彼を気にしているので頭の中にきちんと入ってくることなどあるはずがなく、これでは今日もまた慌てて覚えることになりそうだということは簡単に予測できた。

二つ目の駅を出てしばらく経ったころ、隣の彼が電車を降りるために読んでいた小説を鞄にしまう。そして少し腰を浮かせたのを見て、私は無言で荷物を寄せて彼が通れる分の通路を空けると彼も無言でそこを通って行った。これが毎日毎日繰り返されている。言葉など一言も交わしはしないけれど、いつの間にか、本当にいつの間にか、私は隣の彼に恋をするようになってしまっていたのだ。

いつか名前を聞くのが夢だ、いや、まずは言葉を交わすことからか。しかし私がチキンなのと、一般的に考えて男子生徒に他校の女子生徒が急に名前を尋ねるのもおかしな光景だろうと、なかなか最初の一歩が踏み出せずにいる。けれどいっそもう永遠にこの状態でもいいんじゃないかと思うくらいには、私はこの片思いという楽しいばかりの行為に満足していた。

「……あ、」

けれど、人生はそうもゆるやかには進んでくれないようだ。

なるべく多くの人が座れるようにと座席を窓側に詰めようとしたら、そこにぽとりと落ちていたのは彼の定期。紺色の定期入れに入れられたそれは、電車通学の彼にとってはなくてはならないものに違いなかった。私だって定期を落としたらものすごく困るだろう、そう思うとやるべきことはひとつ、彼の元にこれを届けることである。私は座席に落ちていた藍色の定期入れを拾い、そしてふとそこに目を落として驚いた。

(サイトウ、ハジメ……)

盲点だった。定期には名前が書いてあるのは当たり前で、勿論彼が落とした定期にもその持ち主の名前が書かれていた。彼の名前は、サイトウハジメ。サイトウという字には大方検討がついたが、ならばハジメとはどんな字を書くのだろうか。初、一、いやそれとも端芽とか。カタカナから連想する漢字はいくつもあって、どれだか分からないくせにそれを連想すること自体が楽しくて仕方がない。

そして次の駅の名前を告げるアナウンスを聞いて私は慌てて立ち上がった。サイトウさんは既にドアの前に立っているようで、急いで彼の元へと向かう。するとサイトウさんのほうも私がやってくるのに気付いたようで、こちらへと視線を向けた。

「……なんだ?」

そのサイトウさんの声に胸がきゅうっと締め付けられるのを感じて、カァと一気に頬の熱が上がるのが自分でも分かる。私は恥ずかしさと緊張で何を言えばいいのか全く分からず、しかし早く渡さなければ駅についてしまうという葛藤の末、小声で「あの……」と呟きながら藍色の定期入れを差し出した。するとサイトウさんは驚いた様子で自分の制服のポケットへと手をやり、そこにいつもの定期入れがないことを知ると私の差し出しているそれを受け取る。その際、コツンと指先と指先がぶつかって、小さく息を飲み込んだ。

「すまない、助かった」
「い、いえ……!」

それだけ返すと、私は俯きながらくるりと踵を返して荷物が置いたままの座席へと向かう。これ以上サイトウさんの前にいることだけはできなかった。だって、恥ずかしすぎる。ストンと腰を降ろすと自分の頬へと両手を当てた。掌よりもずいぶんと熱い頬は、これまでの羞恥と緊張を物語っている。

少しとはいえど話すことができたし、名前を知ることもできた。サイトウハジメさん、と心の中で繰り返していると徐々に電車がスピードを落とし、やがて三つ目の駅で止まる。窓から駅のホームを見やると、そこには人ごみの少し前を歩くサイトウさんがいた。やがてサイトウさんは人ごみの中に埋もれて見えなくなってしまったけれど、私は変わらずにホームを見続ける。

明日もきっとサイトウさんの隣に座るだろう。座れるだろうか、いや座らなければならない。明日は今日より何かが変わっているだろうかと、そんなことを思いながら私は視線を戻して再び単語帳をパラリと捲った。開いている電車のドアから冷たすぎない、やわらかな風が舞い込んでくる。春は、これから。




110504(名前変換がないことには書き終わってから気付きましたとかそんなそんな。駅や電車内の様子は私が通学のときに利用しているものを参考にしてるので田舎っぽいです。(笑) いろいろ実話ネタが入っていたりいなかったり。)