オルガンを弾いていると、すぐそばの窓からカサリと葉の踏まれる音がした。それに気付いて鍵盤を滑らせていた指を止め、窓へと向かってそこから身を乗り出す。右を向いてもなにもなかったので左を向くと、そこには思い描いていた人物がいた。私はにこりと笑みを浮かべて、黒いマントを身に付けて壁に寄りかかっている彼に向かって声をかける。


「こんにちは、秘密探偵さん」
「……その呼び方はやめろと、何度言ったら分かる」
「だって、初対面のときの衝撃が強すぎたんだもの。あれは忘れられないです」
「忘れろ」


そう、あれはいつのことだったか。普段は危ないから夜になったら外出をしてはいけないときつく言われているのだが、その日はなにかの用事で夜道を歩いていた。すると酔っている悪漢にからまれてしまい、私が困っているところに現れて助けてくれたのが彼、斎藤さんである。悪漢を追い払った途端に黒いマントを翻して踵を返そうとした彼を慌てて引きとめ、なにかお礼をしたいからと名前を訊ねたら言われたのだ。秘密探偵ゆえ、名を明かすことはできぬ、と。その台詞にぽかんとしていた私をそのままに、彼はさっさとどこかへ去ってしまったのである。

しかしそんな彼と再会したのはそう日が経っていないとある日の昼間であった。


「再会したときは吃驚しましたよ。まさか、秘密探偵さんがお父さまのお抱え探偵さんだったなんて!」
「あのときのあんたの驚きようこそ、俺は忘れられないのだが」
「わ、忘れてくださいそんなことは!」


そうだ、再会したのは私の実家の館であった。とある企業のトップにいる父親には、味方が多ければ敵も多い。そのため専属の警護人やら探偵やらを雇っているらしいのだが、その中に斎藤さんがいたのだ。館の廊下で父親とその隣を歩く彼にばったりと遭遇したときには、たいそう驚いたものである。……どのように驚いたかは内緒だ。とにかく、斎藤さんに馬鹿にされるくらいには妙な驚き方をしてしまった。

そんな再会をして以来、彼は週に一度この館に来るとこうやってこっそりと私の元へと来てくれる。堂々と会い来てくれたって構わないと私は思うのだが、彼は頑としてそうとはしなかった。そうやら大人の事情というやつらしい。私はそのへんの事はよく分からないが、このようにこっそりと来てくれるのもなかなかスリルがあるような気がして楽しかったりする。

彼が私に会いに来る時間帯はきまって私がオルガンのレッスンをしているときで、こうして少しだけお喋りをしてから私が彼の為にオルガンで一曲奏でるのがいつの間にかお決まりになっていた。そして私がオルガンを弾いている間に、彼はいつの間にか姿を消す。しかし、実は斉藤さんは離れた所で私の奏でるオルガンを最後まで聴いてくれていることを知っていた。


「秘密探偵さんは、」
「斎藤だ」
「……斎藤さんは、西洋のことについて詳しいんですよね?」
「一般人より知識があるというだけで、精通しているわけではない。……なんだ、聞きたいことでもあるのか」
「いいえ、西洋文化に興味があるだけです。よかったら、なにか教えてください。なんでもいいので、西洋のこと」


ずい、と窓枠から更に身を乗り出してそう斎藤さんに尋ねると、彼は少しだけ思案する顔をしてからそうだな、と小さく呟いた。こうやって急に面倒くさいような話を振っても、斎藤さんは煙に巻いたりしないからいいと思う。


「……“誠の恋をするものは、みな一目で恋をする”。有名な西洋作家が残した言葉だ」
「えっ!斎藤さんって、そんなロマンティックな人なんですか?!」
「断じて俺の好みじゃない。あんたが好きそうだと思ったからだ」
「あ、そうなんですか?ありがとうございます。素敵な言葉ですね」


西洋の文化は日本とは大きく異なり、そのなにもかもが私にとっては魅力的に感じた。それは音楽しかり、文学しかり、だ。にこりと斎藤さんに笑みを向けてから空を仰ぐと、外は薄っすらと赤らみ始めている。鴉の鳴く声が聞こえて、それはそろそろお喋りの時間も終わりだということを告げていた。別に時間を決めているわけではないが、そろそろオルガンを弾き始めなければとイスに腰掛ける。


「秘密探偵さん、今日の曲目のご所望は?」
「あんたの好きなもので構わない」
「……秘密探偵さん、いや斎藤さん、あなた私に名前を呼べと言ってますが、人のこと言えませんよ」
「……さんのお好きなもので」
「では、バッハのオルガン協奏曲、第4番ハ長調を」


楽譜を準備してからオルガンのふいごをゆっくりと踏んで空気を送り、それと同時に鍵盤に指を滑らせた。あたたかい、深みのある聞き慣れた音が部屋いっぱいに広がる。楽譜を目で追いつつ鍵盤に滑らせる指もたまに確認しつつ、ふと思う。斎藤さんのためにオルガンを奏でるこの時間が好きだと。





西





110520(ALI PROJECTの「昭和恋々幻燈館」をイメージしながら。前々から、この曲をテーマにして書いてみたかったのです。)