小さく溜息を零すと折角晴れていた気持ちが再びどんよりと曇ってくるのが分かり、そんな自分にまたひとつ溜息を零した。あぁ、わたしのばか。自分に対する苛立ちや後悔が心の中でじくじくと広がり、そんな自分の弱さに再度やるせない悔しさがこみ上げてくる。唇を噛むと、大切なひとに言われた言葉が頭の中で反芻されて、数秒迷ってから、そっと噛んでいた唇を緩めた。 『悔しかったり寂しかったりすると自分の唇噛むクセ、まだ直ってないのな、お前』。いつだったか彼はそう言って私の頬をぐにぐにと引っ張り、おしおきだ、とお日さまのような笑みを見せてくれた。私はその笑顔にはてんで弱く、それまで抱えていた真っ黒な気持ちなど忘れて、いつだってそれにつられてにへらと締まりのない笑みを零していたものだ。馬鹿みたいにまっすぐで、何も知らないのに、目に見えるものが全てだと信じていたあのとき。若いとはそういうものだと思いつつ、けれどやはり、あの馬鹿みたいなときが一番楽しくて、懐かしかった。今はもう手に入らないものだと知っているから、尚更。 そこまで思ったところで、パタンと背後の扉が軽い音を立てた。この場所を知っている人物は限られているので、誰が来たのかなんて考えなくても分かる。分かるから、振り返らなかった。 「また、ここにいた」 カツカツと靴が高く鳴る音が、彼が近付いていることを私に否応なく知らせる。最後にひときわ強くカツンと鳴って、靴の音が止まった。すぐそばにある気配はあまりにも慣れてしまったもので、それを考えるとなぜだか泣きそうになる。あぁ、もう、どうして来るの。 私のそんな思いなんて知らないで、彼、シリウスは私の肩を軽く引いた。私はされるがままにシリウスを振り返る形になり、自分でもよくわからない表情のままシリウスを見つめる。シリウスは私の表情を見て一瞬驚いたように瞳を大きく開くが、次の瞬間にはやや呆れたような、それでいて仕方がないというような、なんとも曖昧な笑みを浮かべた。 「なんて顔してんだよ、」 「…う、うるさい」 「スージーが心配してたぞ。またがいなくなっちゃった、って」 「…」 「昔から嫌なことあるといつもこの場所に来るの、変わってないな」 「…」 「なんてったって、俺とお前しか知らない場所だ」 無言を貫く私にお構いなく喋り続けるシリウスの最後の言葉を聞いて、私はカッと顔に熱が集まるのが分かった。先程の言葉が「俺が迎えに来るのを待っているんだろ」と聞こえてしまったからで、あながちそれが間違っていないから、尚更恥ずかしい。私がぱっと顔を逸らした途端にシリウスの笑みが聞こえ、全てを見通されているようなその笑みに穴があったら入りたいとはこういうことかと強く思った。あぁ、だから、だからシリウスには来て欲しくなかったのに。 この部屋はまだ私とシリウスが1年生だったころ、2人で校内で迷子になった時に見つけた隠し部屋だった。どうしてシリウスと2人きりになってしまったのかは忘れてしまったが、入学して間もない頃、あてもなく校内を彷徨った心細さは今でも覚えている。まだ入学したてで相手のことをよく知りもしないというのに、迷子であるという不安に負けて、私はシリウスと手を繋いで階段を下りたり上ったり、部屋を開けたり閉めたりを繰り返していた。なかなか人が見つからず私と同様シリウスも大層心細く感じ始めていたのだろう、速くなる彼の歩くスピードに必死に追いつこうとするあまり、なにもない床に躓いてしまった私はすぐ傍にあった壁に手をつこうとしたのだが、手はそのまま壁を押して支えを失い、私の身体は止まることなく倒れこんでしまったのだ。そしてパタンという音と共に現れたのは先輩たちから「校内中にあふれているのよ」と聞いてた、いわゆる、隠し小部屋だった。 そこから後のことは正直あまり覚えておらず、自ら発見した隠し小部屋にシリウスと2人で興奮して「これは2人だけの内緒にしようね!」と言い合ったことだけ覚えている。ただこの後を覚えていないということは、どうにかして平和的に迷子事件は解決されたのだろう。そしてこの迷子事件を機に、私とシリウスの距離はぐんと近づいたことも覚えていた。まったく自分に都合のいいことだけ覚えているこの頭はどうにかならないのか、と自分に呆れる。 「懐かしいよな。もう、…5年?も経つのに、ちっとも変わってねぇ」 「…」 「あの頃から変わったのは、俺と、お前だけだ」 続くシリウスの独白に、私は否定の言葉を紡げなかった。そりゃあ、5年も経てば、ひとは変わる。万物は諸行無常であり、時を異にして同じものなんてない。それは分かっている。分かっているけれど、変わりたくなかったのだ、私は。あの頃の、私とシリウスでいたかった。 急に両頬に手を伸ばされて、ぐるりとシリウスの正面を向かされる。昔から飽きるほど見てきたその顔は相変わらず端正で、うつくしくて、私のだいすきな顔だった。そしてシリウスは困ったような笑みを浮かべて、両手で私の頬を挟みながら、右手の親指で私の唇をなぞる。 「悔しいとき、自分の唇を噛むクセ。こういうとこはお前、変わってないな」 「…っ、」 「あと、嫌なことあったら、この部屋に来ること。変わってなくて、嬉しい」 「え、」 両頬を包んでいた手が離れて、それは私の背中に回った。 時にしたらほんの数秒でしかないはずのそれがなぜかとてもゆっくりに感じられて、まるでスローモーションのように私の脳裏に焼きつく。背中に感じるシリウスの体温に、無性に泣きそうになった。強くもなく弱くもなく抱きしめられる力は優しさで溢れていて、ぽん、と頭を撫でるように叩かれる。あぁ、もう、かっこいいな、ばか。 「俺だけが、を見つけてやれるから」 私はなにも言わずに、縋るようにシリウスのことを抱きしめ返した。私たちには、それで、十分だったのだ。 121104(ツイッターにて企画されました、『物書き合宿』に参加した際に書きあげたお話。制限時間は2時間半、スタートと同時にお題が発表され、このときのお題は「過去を振り返る」でした。書き終わったら参加者同士で批評をし、よりよい作品を作ろうという企画で、普段はあまりもらえない批評というものをいただき、とても刺激的な企画でした!) |