たしか、あのときも雨が降っていた。
 自分の曖昧な記憶では真実がどうであったのか思い出せず、すぐそばの2人掛けのソファーに座っていたに「なぁ、雨だったよな」と尋ねると、は読んでいた日刊預言者新聞から顔を上げてはぁ?と訝しげな視線を俺に向けた。
「なにを言っているの?雨は現在進行形で降っているけど」
「あぁ、そうだけど、そうじゃなくて。あの日、俺とが、図書室で会った日だよ」
「あぁ…」
 は漏らすようにそう呟くと、窓の方へと視線を移した。ざあざあという音と共に窓の向こうの世界を濁らせている雨粒は、恵みの雨というには少々激しすぎて、勢いよく窓に打ち付けられては伝い流れていく。「そういや、雨、だったっけ」というの声は、今にもその雨粒の音に掻き消されそうなほど小さく、けれどまっすぐに俺の耳に響いた。心地いい声とはこれのことを言うのだと、気付いたのは果たしていつのことだったか。少なくとも、図書室で出会ったあの日には、まだ知らぬことであったのは確かだった。



 今日の授業後は中庭でスニッチを飛ばして遊ぼうと昨日のうちからジェームズたちと決めていたのに、俺たちの期待は大外れで外は大雨だった。この雨の中では放たれたスニッチを見つけることはおろか自分たちが箒に乗って飛び回ることも危険だと、そう言って決行を止めたジェームズに少々腹が立ったけれど、彼の言うことも尤もだったのでしぶしぶとそれを了承したのはつい先ほど。苛々とした気分を当り散らしたいが故にフィルチに悪戯を仕掛けようとも提案したのだが、せっかくなので雨の日にしかできないこと、図書室で悪戯の参考になりそうな書籍を探そうというリーマスの提案のほうが通ってしまったがために、気が進まないが、俺は図書室で大量にある本の背表紙を眺めていた。
 悪戯の参考になりそうな本というのは直感を頼りにしないとだめだ、というのが俺のポリシーであるのだが、気が進まないうえにまだ気分も苛々しており、直感を働かせられるほどの集中力が俺にはなかった。ジェームズとピーターは向こうの棚、俺とリーマスでこの周辺の棚を見て回っているのだが、この作業が早々に面倒になった俺はリーマスの姿が見当たらないうちにそそくさと棚と棚の間をかいくぐって人気のないひっそりとしたスペースに移動した。どうせリーマスは俺が機嫌を悪くしていたことに気付いていたはずだ、俺の姿が消えようが放っておいてくれるだろう。
 とりあえず座ろうと、溜息をついて椅子を引くとそこには1冊の手帳があった。座りたい気持ちと苛々していた気分とが相まって、なんでこんなところに手帳があんだよと舌打ちを鳴らすと、その忘れ去られたようにぽつんと置いてあった手帳を乱暴に手に取った。きっと個人の手帳だ、中身を見て持ち主を確認して、この手帳の持ち主が気に食わない奴だった場合、悪戯のネタにできる。そんな考えが頭を過ぎり、ふっと頬を持ち上げた。見てやろうじゃねぇか、こんなところに忘れた奴が悪いんだよ。緑の皮でできた上質な手帳は忌み嫌うスリザリンを連想させ、さらに苛立ちを募らせた。そして適当なページに指を滑り込ませ、手帳を開こうとしたそのとき。
「だめ!」
「うわっ?!」
 ばさばさという数冊の本が落ちる音と共に、飛び込んできた人影にその手帳を奪い取られた。とっさのことに驚いて反射でローブのポケットにあった杖を取り出すものの、自分の目の前で緑の皮の手帳を大事そうに抱いている人物を見てその杖先を下げる。そこにいた人物は、同学年で同じグリフィンドール寮の、だった。
「ごめん、びっくりして、つい」
「いや、こっちもごめんね、急に飛び出したらだれでもびっくりしちゃうよね」
 は肩で不規則に呼吸を繰り返しながらそう言った。俺の手から奪い取った手帳をぎゅっと抱きしめながら、視線をうろうろと彷徨わせているその姿はいかにも怪しげである。俺はとりあえず杖をローブのポケットにしまうと、床に落ちている本のうちの1冊を拾い上げた。それと同時にの「あっ、」という声が聞こえたが、それは俺を制止させるだけの効力は持っていない。俺は手に取った本のタイトルへと目を滑らせ、「『ケンタウルスと夜明けの朝』…」、とそのタイトルを読み上げた。
「第7版か。これ、面白いよな」
「え、…シリウスも、そういう本、読むんだ?」
「そりゃあな。最近は昔ほどじゃなくなったけど」
 は驚いたような表情で俺をうかがっている。まぁそれも無理ないかと、ぱらぱらと本のページをめくると、少し大きめに書いてある英語が懐かしくてすこしせつなかった。まだホグワーツに来ていなかったころはよく弟と一緒に児童書のページを捲っていたが、きっとこれからはもうそのようなことはできないだろう。グリフィンドールに入ることを決めた自分は、その瞬間、いろんなものから解き放たれたと同時に、いろんなものを失ったのだ。弟と一緒にわくわくしながら本を読むこと、これもその中のひとつ。
「懐かしいな。知ってるか?これ、第4版から内容が改変されてるんだよ」
「そうなの?」
「第3版までは、もっとケンタウルスを…ひいては、魔法動物を皮肉るような内容だったんだ。一般的に知られているのは第4版以降の内容なんだけど、俺の家には第2版が残っててさ。むしろ第4版以降の内容は学校に来てから知った」
「…シリウスが面白いと思ったのは、どっちの内容?」
 の声色にふと顔を上げると、彼女はどこか不安そうな顔で少し俯きながら、相変わらず緑の皮の手帳をぎゅっと抱きしめていた。
 はいつもひとりでいることが多く、友達がいないというわけではなさそうであったが、過度な交流はしていないように感じた。笑顔を見ることもあったけれど、どちらかというと、静かに凛と佇んでいる人物のイメージである。そんな人物だと思っていた彼女が、このようにおどおどと俺を見て、不安そうに手帳を抱えているということ、それがなぜか、このときの俺は引っかかるような、どこかもどかしい気持ちにさせられた。
「改変された後、の内容」
「…そう」
 この答えが本心であることは確かだった。だが、心のどこかで、彼女を安心させられる答えはこちらであると、呼びかけていたことも確かだった。その理由は、きっと、分からなかった、ということにしておく。
「あのさ、その手帳…」
「あ、これ、」
「ごめん、忘れものかと思って中身確認しようとしたけど、見てないから」
 悪戯に利用できるかと思って、という言い訳はさすがにごまかした。持ち主がスリザリン生だったらならともかく、同寮であるにそれを告げても不利なのはこちらだ。は少し戸惑うように手帳を見て、そして申し訳なさそうに「こっちこそ、」と口を開いた。
「ごめんね、つい、手荒に奪い取っちゃったけど、見られても大丈夫なものではあるんだ」
「そうなのか?」
「うん。ちょっと、恥ずかしいんだけど…読んだ本と、感想をね。書いてるんだ、これに」
 そう言っては、ほら、と手帳の適当なページを開いて見せてくれる。確かに、そこにはなんとなく覚えがあるタイトルと、つらつらとした文章が書かれていた。は書いてある内容を見られるのが恥ずかしいのかそそくさと手帳を閉じると、落ちたままになっていた本を拾い集めて手帳と一緒に胸に抱え込む。俺は相変わらず手に持っていた『ケンタウルスと夜明けの朝』をに手渡した。小さくて、丸っこくて、自分と同い年のはずなのに、やけに幼さを感じる手だった。
 それまでと話すことはおろか、関わろうともしなかった俺が、彼女に意識を向けるようになった、そんな雨の日の出来事だった。



「緑の皮の手帳、今でも使ってるのか?」
「緑の皮?…あぁ、あの、感想を書いていたやつ。あれね、2年生のときにページ使い切っちゃったから、もう使ってないよ」
「もう感想は書いてないんだ」
「うん。もう物語を読むこと自体、少なくなっちゃったからね。参考書の感想を書いても意味がないよ」
「そうだなぁ…」
 かくいう今も、が読んでいるのはあのころのような児童文学ではなく新聞である。物語を読まなくなった理由は、きっと忙しくて時間がないからだけではないはずなのに、いつの間にかそれから遠ざかっている自分たちがいた。仕方がないことであり、常識的に考えてこれが普通であることは間違いなかった。けれどどうしてそうなるかは、今の俺には分からない。
 が座っている2人掛けソファーの空いているほうに腰かけると、は少し思案するような間を置いてから、新聞をテーブルへと投げた。それと同時に、こてんと彼女の頭が俺の肩に落ちてくる。
「なつかしいね。1年生のときの、秋だったね」
「あぁ。初めてとちゃんと話したときだった」
「私も覚えているよ。シリウスと2人きりではじめて話したときのこと」
 の笑うような声が聞こえて、俺も頬を緩めながら彼女の額に唇を落とした。こうやって今、隣で寄り添って、微笑みあって、いとおしい時間をと過ごせるのも、あの日の出会いがあったから。きっと一生わすれない、大事なだいじな雨の日の記憶。



131017(いまこうして一緒にいられることってすっごくしあわせなことだねって話。文章書くことが久しぶりすぎていろいろ迷子ってら…。)