手が伸びてきたのに気付いたけれど、それを避けようと思うより前に乾いた音が廊下に響いた。ぱしん、と見事に綺麗な音を出した叩き方に感動しつつ、よろりと体が揺れて尻餅をつく。驚いたというよりは仕方ないかというような、そんな客観的な感情であり、わたしの頬を叩いたひとに対して大した怒りはこみあげてこなかった。それもそれでどうなのだろうかと自分で自分に呆れながら、シリウスの驚いた声とぱたぱたとシリウスに告白した女の子の可愛らしい足音を聞く。大丈夫か、とかけられた言葉に適当に返すと、シリウスが立ち上がろうとするのを制した。これまた驚いた表情でわたしを見てきたシリウスに、だめだよ、と念を押すように話しかける。

「わたしは平気だから、あの子を怒らないであげて」

わたしが女の子の走っていった廊下を眺めながらそう言うと、シリウスは言い返そうと口を開く。しかしわたしはそれも制して、叩かれた左頬を押さえながら立ち上がった。シリウスはしゃがんだままなので、珍しくわたしがシリウスを見下ろす形になる。どうしたものかと、ひとつ息を吐いてからじんじんと痛む頬から手を離した。

「わたしたちが幸せになれば、傷つく誰かがいるんだよね」
「……それは、」
「まぁ仕方ないことなんだけどさ、恋愛ってそういうものだし。でも、わたしたちは誰かを傷つけてまでそれを得ているから……だから、怒らないであげてね」

わたしがシリウスと付き合っていなければ、あの子にはまだ幸せになれる余地があったかもしれない。けれどわたしはシリウスと付き合わなければよかったとは思わないし、別れる気もさらさらないのだ。あの子が今まで抱いていた夢を粉々にしてしまった対価がわたしの頬ならば、お安いご用である。どうせポンフリー先生のところに行けば一瞬で痛みは消えるし、赤みもすぐに引く。わたしたちは幸せである。だから、わたしたち以外のひとのことを考えなくてはならない。

シリウスは吐息をついてから、立ち上がった。形勢逆転で、今度はわたしがシリウスを見上げる形になる。左頬に手を添えられて、触れられるとぴりっとかすかな痛みが走った。シリウスはなにかを言うように口を開いたが、しかしそれをすぐに閉じてしまう。ぎゅっと一度結んでから、、医務室行こう、という小さな言葉が聞こえた。

「わたしもあの子も悪くないし、シリウスも悪くない。誰も悪くはないんだ。まぁ、しいていえばシリウスをこんなに恰好よく産んでしまったシリウスの両親、かな」
「……馬鹿、行くぞ」

シリウスはわたしの手を引いて医務室へと続く廊下を進んでいった。かすかに見えた横顔は少し悲しそうだったけれど、きっと自分を責めているのだと思う。気にすることないのにな、と思いながらシリウスに手をひかれるままに医務室へと向かった。



幸せの対価


それはきっと、簡単なものではないんだよ




090916(誰かが幸せだと、不幸せな誰かがいるってことを忘れちゃいけないと思う。言いたいことだけ詰め込んだら、珍しく短い話になってしまった笑)