「あ、あー……」

丁度学校を出ようとした今、急に降りだした雨は一瞬の間にまるでバケツをひっくり返したかのような大降りになっていた。学校経由で借りているアパートはここから徒歩二十分、しかし早く学校を出ないとアパートの近くのスーパーのタイムセールに間に合わない。今日はなんとしてでも一袋六円のもやしと一箱八十八円のカレールーを手に入れなければいけないというのに、と思いながら空を見上げると雨は弱まるどころか更に激しくなってきているように見えた。

空と目の前の広場を交互に見てどうしようか迷うものの、そう時間は経たないうちに心は決まった。雨で濡れるっていうのがなんだっていうんだ。そんなの帰ってお風呂に入れば済むことだ、今の私にとってはもやしとカレールーを安く手に入れることが一番の問題なのだから。カレールーは逃してもいい、ただもやしだけは絶対に手に入れなければならない。普段は安くても九円でしか売っていないもやしが今日だけ六円なのだ、貧乏性な学生である私にとってこれほど嬉しいことはない。

「も、もやしのために…!」

いざ、と数歩踏み出した途端「おい、お前」と後ろから呼び止められて慌てて振り返った。今ここの昇降口には私以外の人影はなく、呼び止められるとしたら私しかいないのだ。既に屋根がない場所にいたので前髪は額に張り付き、後ろの髪もしっとりと重くなっている。鞄は耐水性なので心配はいらず、あえて言うならば金属の金具が錆びないかということだけが気がかりだ。

「おい、外にいないで入って来い!濡れるだろうが!」
「え?わ、は、はいっ!あ、いや、ごめんなさい先を急いでるので帰ります!」
「待てっ…この雨の中歩いてか?!」
「ごめんなさい、私にはもやしが捨てられなくて!」
「はぁ?!ちょっ…とりあえず十秒待て!」
「は、はいっ?!」

私とその人物の間には少し距離があって誰なのかは分からなかったが若い男性ということだけは分かった。先輩なのか後輩なのか、はたまた准教授なのかも分からない。この広い大学の中、知り合いなんて数えるほどしかいないのだから当たり前と言っては当たり前なのだが。

彼は私にそう言うと自分の鞄をあさり始め、そして何かを見つけるとそれを私に投げて寄こした。それは綺麗な弧を描いて丁度私の胸の辺りに落ちてくる。よく見れば、紺の折りたたみ傘だった。その傘と常人ではできないコントロールに驚いてその人物を見遣ると、彼は「急ぐんだろ」と私に告げる。

「それ使わねぇからやるよ。ほら、さっさと差して行きやがれ」
「あっありがとうございます!でも、絶対にお返ししますから!」
「いいって」
「お返ししますから!あの、お名前をお聞きしてもいいですか!」

この傘を持ち歩いていたということは使う予定だったのだろう、それを全く他人の私に貸すなんてなんて優しい人なんだ。その行為を無下にはできないし正直助かったという気持ちもある、だからこそこの傘を貸してはもらっても貰うことはできない。ちゃんと乾燥させてお礼も添えて、また後日返さなければ。焦って傘をひらきながらそう尋ねると、その私の焦燥感が伝わったのか間髪入れずに返事があった。

「シリウス・ブラック」
「私、文学部二回生のっていいます!あの、本当にありがとうございました!」

急いでいたので最後の方は半ば叫ぶようになってしまったがそれでもお礼を告げると、私は今度こそ外に飛び出して雨の中を走って昇降口から離れていった。先ほど外に出たせいで既に濡れてしまっていたが傘があるに越したことはない、この変わらない激しさの雨に討たれて帰るのはやはりちょっと、いやかなり悲しいと思う。

もう家に帰っている暇はない、このままスーパーに向かわなくてはタイムセールには間に合わないだろう。先ほど聞いた人物の名前を一度頭の中で繰り返してから、私はもやしとカレールーをなんとしてでも獲得するべくスーパーへの近道を進んだ。





紺色の傘が咲く


「シリウス、そんなところにつっ立ってどうしたんだい」
「…なぁリーマス、もやしってなんだと思う?」
「え?食べ物の?」
「だよなぁ、もやしってそれしかねぇよなぁ…」





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