「う、わわ……!」


急に降り出した雨に驚いて天を仰ぐと先程にはなかった薄暗い雲が空一面に広がっていた。 ぽつぽつと始めはゆるやかに零れてきた水滴もすぐに大粒となってまるで地面に叩きつけられるように落ちてくる。 土砂降りになってきた予想外の降水にどこかで雨宿りするべきか迷って手綱を引いて馬を止めるが、 空一面に広がる雨雲から雨がやむ気配を感じられず結局そのまま馬を走らせた。 衣服は雨粒を吸い込んでじっとりと重くなり、それが直接肌に張り付いて体温が次第に奪われていくのがわかる。 水気を帯びてぬかるむ地面を馬が駆けるたびに泥がはねた。 しかしそれらを気にしている暇はなく、空模様を気にしながらひたすらに王宮を目指して駆ける。 自分の身体よりも手に入れた情報のほうが大事であり、情報は早く伝えなければ意味がないということは十分に承知していた。

雨なんてついてないにも程がある、と間の悪さに小さく舌打ちを鳴らしてから額に張り付く前髪を払いのけた。 雨のせいで視界が悪く見慣れた世界がぼやけて見えて馬を走らせづらい。 やっと王宮が見えてきたと思ったころには全身ずぶ濡れで、乗馬したまま駆け込んで門をくぐり抜けた。 近くの馬小屋でやっと馬から降りたころにはもう全身から雫が滴っている状態で、 ふたつに結ってあった髪を解いて水気を払うとぼたぼたと地面に水玉を描く。 衣服のほうも裾や袖から滴る水気だけを払うと馬の世話を馬番に任せてその場を後にした。

ざあざあと止む様子のない雨を眺めつつ上司である光夜さんの元へと急いでいると、風通しがいい廊下のせいかぶるりと身体が震えた。 そのまま手で口を覆って、っくしゅ、と小さくくしゃみを零してから鼻をすする。 王宮に着替え置いてあったっけな、ていうか風邪ひくなぁこれは。 そう呆れたように思いながら首に張り付く髪を払いのけた時だった。


「か?」

「うわ、光夜さん。なんでこんなところにいるんですか」

「……お前のことだから土砂降りの雨の中でもずぶ濡れで帰ってくるだろうと思ったからな」

「ははぁ、それで待ち伏……っくしょ、」

「濡れたままでうろつくと風邪ひくぞ。ほら、」


差し出された毛布を素直に受け取って身体に巻きつけると、光夜さんは踵を返して歩きだしたのでそのあとを慌てて追った。 方向からして執務室に向かっているのだろう、半歩後ろといういつもの定位置で鼻をすすったりくしゃみをしたりしながらついていくと、 途中で緋奈さまの侍女である瀬里さんに出くわして光夜さんが着替えや温石なんかを持ってくるように頼んでくれる。 いまだに全身ずぶ濡れ状態である私を見て瀬里さんは驚いた様子で「急いで用意しますので!」と早足に去って行き、 光夜さんはその背中に俺の執務室に頼む、と言葉を投げていたが私はそれを見送るので精一杯だった。


「ったく……お前は馬鹿か?これで風邪ひいたらどれだけの人に迷惑がかかると思ってる」

「……すみません。芙葉さんからの書状で頭がいっぱいでした」

「あぁもう、謝罪はいいから早くその書状見せろ。濡れてないだろうな?」

「芙葉さんが耐水性のある布に包んで渡してくれたので平気だと思います。 ……第一そうじゃなかったらこの雨の中駆けてくるような馬鹿な真似はしません」

「まぁ情報は早いに越したことはないけどな、多少は心配する人がいることを忘れるなよ」

「……、心配してくれてたんですか?」

「いいから書状だせ!」


答えになっていない返事に苦笑を零しながら懐に手を突っ込み、自惚れすぎだな、 と自己反省しながら光夜さんに布に包まれたままの書状を手渡した。 ぱらりと布を解きながら歩き出す光夜さんに熱心だなぁと呆れたように思う。 早速と言わんばかりに書状に目を通し始めた光夜さんの視界にはもうそのことしか頭にないようで、無意識なのか早足になった。 先程までは意識して私に歩幅を合わせてくれていたのだろうとくすりと小さく笑みを漏らしながら静かに光夜さんのあとについていく。 書状を見つめる光夜さんは無表情でそこからはなんの情報も読み取ることはできなかった。 さて、芙葉さんはどんな情報をしたためたのだろうか。

今回私が頼まれた任務は、長年紫洞に間者として潜入している芙葉さんから書状を受け取りそれを無事黒嶺に持ち帰ること。 5日ほどで帰還する予定だったが、なかなか芙葉さんと接触することができずに結局3日ほど遅れて帰って来てしまった。 いつもと変わらない王宮の様子からして黒嶺に大した変化はないと思うが、 芙葉さんと接触しにくかったことからも窺えるように紫洞の方は現在いろいろと急速に起こっているようなのである。 黒嶺は最近朱根と紫洞の動向に目を光らせているので、今回のこの書状によっては黒嶺も動くかもしれない、 そんなことを思っていると光夜さんの執務室に着き、光夜さんの後に続くようにして部屋に入った。


「光夜さん、上衣脱いでもいいですか」

「あぁ」


書状に目を落としたままなにかを思案しているのか、こちらを一瞥もしないで光夜さんは答えた。 ぐっしょりと濡れて重い上衣を剥ぐように脱ぐと下衣も湿っているようで肌に張り付く感触がうっとおしい。 このまま絞ると垂れてきそうだな、と思いながら上衣を椅子の背もたれの部分に掛けた。 ふぅと息をついて沓も脱ぎ捨てる。


「あーあ、ぐしょぐしょ。でもさすがにこれ以上は脱げないしな……光夜さん、手拭いとかって執務室にありましたっけ」

「あぁ、……ってお前?!上衣、なに脱いで、」

「え、ちゃんと光夜さんに許可とったじゃないですか。上衣脱いでもいいですかって聞いたらあぁって」

「……覚えがないな」

「書状に熱中してたんでしょうね」

「そ、そうなのか……ってそうじゃなくてだな!脱ぐなよ、俺の執務室で!」

「あ、すみません濡れた上衣椅子に掛けちゃいました……」

「だからそういうことではなくて!上司とはいえ仮にも男の前で軽々上衣脱いだりするなよ……」

「べつに……光夜さん、私に変な気なんて起こさないじゃないですか」


希少である女の文官及び間者として王宮に入り浸っているが、 他の男に襲われかけたことはあっても一番身近にいる光夜さんにそのこうなことをされたことは一度たりともなかった。 むしろ助けてもらっているぐらいである。 第一光夜さんがそのようなことをする人間であったならば、私は長年彼に仕えることなんてなかっただろうしこうやって無謀に2人きりになどなったりはしないだろう。 もっとも、彼の性格からして光夜さんはそんなことをする人ではないと思う。そう、思っていのだが。

私が髪の雫を払いながら溜息交じりにありえないでしょう、と告げると同時に光夜さんは急に私の手首を掴んですぐ傍の長椅子に押し付けた。 ぐらりと世界が傾いて身体が柔らかい長椅子に倒れる。 仮眠用に置かれている長椅子はこの簡素な部屋に似つかわしくないほどふかふかで、 いつもはなんだか申し訳ないなぁと思いながら使用していたのだが今回ばかりは助かったとふかふかな長椅子に感謝した。 もしこれが安くて硬い長椅子だったならば私の背中がどれだけ痛んだことか。 いやいや今考えるのはそんなことじゃないよね、と自分に言い聞かせるように思いながら私の瞳をまっすぐに見つめている光夜さんの菫色の瞳を呆然としながら見た。 え、なにこれ。なにが起こっているの。


「あ、の……?」

「なぁ、よく聞いとけ」

「あ、はい。……、え?」

「俺は確かにお前の上司だ。6年前?くらいからお前はずっと俺の傍にいたし、俺も思う存分お前をこきつかってきた。なかなかに便利だったな」

「え?あの、さりげなーく酷いこと言ってるの、気付いてます?」

「俺はお前が11の時から知っている」

「あ、無視ですか」

「真面目でよく気がついてしょっちゅう俺に内緒で裏でコソコソ動いてくれやがって、 間者としての素質もあることに気づいてお前も忙しくなっただろうがお前は変わらず俺の傍でいろいろやってくれてる。 女とは思えないくらいの器量と暗記力と頭脳はそこらへんの文官よりも上を行くだろう」

「はぁ……ありがとうございます……?」


誉められているのかけなされているのか。よく分からないがとりあえず礼を言っておいた。 両手首は相変わらず光夜さんの手のなかに収まっているので身動きはできない。 いまこの状況がよく分からない上に、光夜さんのなにを言いたいのか意味不明な言葉のせいで余計に頭が混乱する。 ど、どうなるんだ、これから。


「お前は文官としても間者としても優秀だし、黒嶺王宮の方々に認められている。 宰相や六騎将も黒嶺の将来をもうお前なしでは考えてないし、俺もこれからもお前を必要としている」

「あ、ど、どうも……」

「結果、俺とお前はこれまで同様これからも長い間一緒にいるだろう。 しかしそこでお前に忘れられては困ることがある。……俺は男で、お前は女ということだ」

「は、はぁ……?」

「一般的に考えてだ。長年の付き合いだとしても、2人きりの部屋で異性が下衣だけになってたらどうなると思う?」

「え、えぇ……性的欲望がうんぬんかんぬんですか?」

「普通に考えてそうだな、……というわけだ」

「いや、どういうわけですか」


どうして光夜さんに押し倒されるような形でお説教まがいのものをされなくてはいけないのか、 と手首を動かそうとするがそう簡単に離してくれそうではなかった。 武術全般はからっきし駄目なのに男としての体力はあるってことが、とあまり嬉しくないと思いながら溜息をつく。 光夜さんを男の人として意識したことなど数えるほどしかないし、性的欲望がうんぬんかんぬんの話は得意ではない。 むしろそちらが得意分野なのか槐斗さんじゃなかろうか、と思っていると光夜さんは重い溜息をついた。


「お前な……今の状況分かってるか?」

「えぇ、まぁ、私が光夜さんに押し倒されてますね。それでお説教まがいのものをされてるといったところでしょうか」

「……有利なのは?」

「光夜さん」

「…………、……真剣に言ってるのか?それともとぼけてるだけか?……いくら俺でもそろそろ限界……」

「え。ま、まさか私を襲ってるとかそういう状況ですか?これ」

「……どう見たってそれ以外ないだろ」

「え、えぇ?!本当ですか?!いや、だって色気も雰囲気も理由も見当たりません!」

「色気や雰囲気はまぁともかく、理由は俺がお前を好きだから」

「はぁ?!え、ちょ、光夜さん落ち着いて下さいよ、今トンデモない幻聴が……」

「お前こそ落ちつけ」


先程までは冷静だった自分がまるで嘘みたいだ。 一度に多くのことが起こりすぎて脳内処理が追い付いてない。 な、なんだって。一体どういう状況なんだ。 私はいま光夜さんに押し倒されてて、す、好きだと言われて、え、まさか、とんでもなく危ない状況なのだろうか。 頭の中で考えれば考えるほど顔が熱くなる。とりあえず、結論。いろいろやばい。

そのとき左手首が光夜さんの右手から離されてほっとしたのも束の間、光夜さんの右手は私のうなじから頬にかけてをすうっとなぞった。 ぞくり、と恐怖のような快感のような震えが身体を駆け抜ける。 私ももう幼い世間知らずな少女ではない、このような行為がどんな意味を持っているのかは理解できた。 しかし理解できるからこそ、驚きと焦りがつのる。


「ちょ、光夜、さんっ」

「……お前が本当に嫌なら、やめる。……嫌、か?」

「え、あ、……い、嫌……ではない、かも?でも、ですね、光夜さんをす、好きかどうかは、うーん……みたいな、」

「なんだそれは……まぁ、今は別にそれで構わない。嫌じゃないならな」

「ま、待ってください、それって卑怯です!」

「卑怯?どこがだ」

「も……もしっ、私が惚れちゃったらどうしてくれるんですか!」

「ちゃんと責任とってやるから安心しろ」

「いやっそういうことではっ!……っ、」


光夜さんの熱いしっとりとした吐息が耳にかかり、びくっと身体が震える。 高鳴る胸の中でずるい、とひっそりと思った。 私は光夜さんのことをずっと尊敬してきたし憧れてもいた。 好きだという漠然とした思いではなかったにしろ思慕のような想いは抱いていたのだ。 それがそのうちころりと好きだという感情に転移してしまってもなんやらおかしくはない。 惚れてしまったら、というのもまんざらではないのかもしれないというのに。

そんなことを思いながらあまりの恥ずかしさにぎゅっと目をつむると頬に置いてあった光夜さんの手がそろりと下りてきて私の唇へと伸ばされた。 光夜さんの手が触れているのだと思うと更に羞恥の思いが強くなって、心臓がきゅっと掴まれているかのように苦しい。 光夜さんの吐息が頬にかかり、彼の前髪がさらりと額に触れた、その時。


「光夜さま、さん、頼まれていた……きゃっ!」

「っあああーっと!瀬里さん待って!行かないでください、誤解です誤解!」

「も、申し訳ありませんっ!あの、着替えと温石、ここに置いておきますので!どうかお気になさらず、続きを……!」

「いや続きもなにも!誤解ですって瀬里さん!」

「い、いえ、失礼致しました……っ!」

「ああああ瀬里さぁぁん!」

「……瀬里、待、」


光夜さんに組み敷かれたままの体勢で瀬里さんを引き留めようとするが、 瀬里さんはいらぬ気遣いをしてくれたようでそそくさと扉を閉めて行ってしまう。 光夜さんが驚いて呆けていた頭を取り戻すころには既に遅く、瀬里さんの姿はもうなかった。 瀬里さんが来ることなどすっかり忘れていた、それは光夜さんも同じようで額に手を当てて吐息を零している。 よく気が付いて聡い瀬里さんといえど彼女も女である、このことが王宮に広がるのも時間の問題であることは考えなくても分かった。


「……瀬里さん間が良すぎ……」

「あーもう……仕事がやり辛くなるな……」

「ははは。……笑えない」


そうお互いに零してからそろりと目線を交わした。 先程の雰囲気はどこへ行ったのか、しらじらしい空気が2人の間に流れる。 言葉を交わさなくてもお互いの言いたいことは分かっていた。 はぁ、とどちらともなく溜息を吐いてから光夜さんに引っ張られるようにして身体を起こす。 見られた上に続きなんてやるか。人が来ることを忘れていた光夜さんの自業自得だ。そういうことにしておく。


「とりあえず着替えろ、本気で風邪ひくぞ」

「言われなくてもそうします。…………部屋出て行ってくれないんですか」

「仕事溜まってるからな。見ないから安心しろ」

「つい今さっき襲われた相手に言われても説得力ないですけど……」

「知るか」

「まぁいいですけど……本当にこっち見ないでくださいよ。……襲わないでくださいねー」

「誰が!」

「いやだから説得力ないですって」






それは、もしかしたら私の心だったのかもしれない。



100927(タイトル見にくかったらすみません…。珍しく有言実行。雨の話で微糖を目指したらちゃんと微糖になったー。笑 かっこいい光夜は書いていてたのしいです。でもこの光夜は変態チックだ…。←)