「――光夜」 「あ?なんだよ」 光夜の名前を呼ぶと、少し苛立っている声が返ってきた。 あたりまえか、と自嘲気味に笑いながら書類の端をトントンと揃える。 ふと視界の端に入った窓を見てみれば、もう外は真っ暗でかすかに月明かりが部屋に差し込んでいた。 昨日もおとついもそのまえも、曇っていて見えなかった月はあと2日3日で満月というところで、なかなか丸々としている。 どこかに転がっていってしまいそう、と口の端を持ち上げた。 「もしも、だよ。わたしがいなくなると、困る?」 「は?なんだよ、急に……まぁ、俺は雑用までやってられないし、お前がいなくなるといろいろ面倒だ」 「あ、うそ。それはどうも」 どうせ「仕事に集中しろ」という言葉が返ってくるのだろうと予想していたのだが、見当違いの言葉が返ってきて素直にうれしかった。 苛立っているだろうにめずらしい、と思うと同時にこんなことを聞くわたしもめずらしいよなぁ、と苦笑する。 書類を紙紐で止めるという作業をしばらく繰り返してから、光夜の机にそれを置いた。 相変わらず光夜の机の上は資料や書類でごちゃごちゃしていて、今日の仕事が終わってから整頓しておいてやるか、と雑用係らしいことを思う。 光夜の机の上にあった、書き終わったばかりであろう書類の墨が乾いていることを確認してから、 もう使い終わった資料と一緒に持ち去ろうとした、そのとき。 「おい」 「ぅ、え?」 書類を左手に持っているので右手で資料をとろうとしたら、急に光夜の右手でぱしりとわたしの右手首をつかまれた。 室内が涼しいのかわたしの体温が高いのか、光夜の右手はひんやりとしている。 いくつかしか年は変わらないのだが、わたしの右手首は随分と男らしくなった光夜の手に収まってしまった。 別に男女の差を嘆くわけでもないが、力は光夜にはもうかなわない。 振り払いたかったけれども足掻くだけ無駄だといつのまにか分かっていたので、溜息をついて目を伏せた。 「離してもらっていい?仕事、進まないから」 「……お前、俺に言ってないことあるだろ」 「……なんのこと。とりあえず、離してよ――い、いたっ、」 手首をねじって光夜の手から抜け出そうとすると、より強く手首を握られた。 鋭い痛みを感じて思わず声をあげると光夜はすこし力を緩めたけれど、それでもやはり強く握られているには変わりない。 光夜がなにを言いたいのか、なんとなく分かるけれどどうしたものか。 そう思っていると、光夜はうつむかせていた顔を急に上げた。 うわわ、至近距離に光夜のきれいな顔がある。 「お前、朱根にしばらく潜り込むんだってな」 きょと、と光夜の言葉に驚いてから、ついに知られたかと苦笑した。 わたしは言ってないし、おそらく槐斗や芦琉もまだ知らないだろう。 だとしたら、きっと黒嶺王に聞いたに違いない。 わたしの苦笑を肯定ととったのか、光夜は険しい顔をした。 なんで俺に言わなかった、と目で聞いてくる。 どうしたものかと目を伏せて、小さく息を吐いた。 「言わなくてごめんね。でも、言う必要がないと思ったから言わなかっただけ」 「……お前は、俺の、部下だろうが」 どうして言わなかった、と再び光夜は顔をうつむかせながら、零すように聞いてきた。 あまりに切羽詰まったような光夜に驚きつつ、わたしもなかなか重宝されてたんだなぁと理解する。 必要とされていたことが、ただ単に嬉しかった。 「条件が当てはまるのがわたししかなかっただけなんだ。だから、相談もなにもしなかった。どうせ行くことになるんだし、黒嶺王の勅命でもあったから」 「……勅命、だと?」 「うん。ちょっと、調べものしにいってくる」 「……機密事項か?」 「きっと。だから今は詳しくは言えない。きっとわたしが朱根に行ってから、聞くと思うよ」 左手に持っていた書類を光夜の机に置いて、わたしの手首をつかんでいる光夜の手にゆっくりとかぶせた。 本当にめずらしい。いつも落ち着いていて、なにごとも速やかに片付けられる頭脳を持っている光夜が大いに取り乱している。 そんなにわたしが朱根に行くことを黙っていたのが残念だったのだろうか、とちょっと悪いことをしたように思えてきた。 とりあえず落ち着いてもらおうとしばらくそのままでいると、次第にゆるゆると手首がほどかれる。 やがてするりとわたしの右手首と左手から手をひくと、そのまま頭を抱えるような体制になった。 まだ落ち着いていないらしい。 「わたしは大丈夫だから、いったん落ち着いておいで」 「……分かった、悪い……しばらく出てくる」 ふらりと立ち上がると、光夜はその危なっかしい足取りのまま部屋を出て行った。 さてはて大丈夫だろうかと光夜が出て行った扉のほうを見ていると、ふとひとの気配がする。 瞬時にそれが誰だか分かり、槐斗、と扉のそばにいるだろうひとの名前を呼んだ。 するとやはり、槐斗が扉から顔をのぞかせる。 「悪い、。……ちょっとなんかまずかったか?」 この様子だと途中からか初めからかは知らないが、どうやら先程の話を聞いていたらしい。 たしかに入りづらい内容だったとは思うのだが、なら立ち去ってほしかったと思う。 なるべくなら今の話、知られたくなかったのに。 「いや、平気。……というか、光夜が心配だから見てきてくれる?たぶんそのへんふらふらしてるだろうから」 「あぁ……危なっかしげな足取りだったが」 「うん、あのままじゃぁ柱にでもぶつかりかねないから。 わたしが行くわけにもいかないから、ちょっと見てあげて。あと、ついでに落ち着かせてやって」 槐斗はしばらくしてから「分かった」と小さく言って、そして最後にわたしのほうをちらりと見てから部屋を出て行った。 ぱたん、と扉のしまる音がしてから、詰まっていた息を存分に吐いた。 「……なんか、わたしが悪いみたいじゃん……」 なんだか光夜を泣かせてしまったような感じだ。 しかしまぁ槐斗をやったので、とりあえず明日になれば大丈夫だろう。 とりあえず、光夜はまだしばらく戻ってこないだろうからそれまでに仕事を大方片付けておいてやろうと先程光夜の机に置いた書類を手に取った。 まったく、なんだか朱根に行きづらくなった。 中庭の奥の巨木のとなりに立っている光夜を見つけ、かさりと草を踏みしめる。 わざと大きめに音が出るように草を踏むと、さすがの状態の光夜も気づいた。 落ちつけようといつもの笑みを向けると、光夜からは苦笑が返ってくる。 あらゆる後悔が顔に表れていて、俺が近付くと光夜はその場に腰を下ろした。 俺もそれにならうように腰を下ろすと、光夜は先程と同じような苦笑を向けてくる。 「悪い、に言われたんだろ?」 「まぁな。お前が危なっかしかったものだから」 光夜から乾いた笑いが聞こえる。相当まいっているのか、俺の言ったことに対しての反撃はなかった。 それほどが朱根に行くことが残念なのか、言ってくれなかったことが残念なのか、それとも。 「――も朱根の件でいろいろ揺れてるはずだ。あまり心配をかけるのは感心しないな」 「……うるさい」 かるく咎めるが、それさえも光夜は分かっているはずだ。 きっと頭よりも心が先走ってしまったのだろう、それゆえにこんなに後悔しているのだろうが。 それほどまでに、光夜はのことを考えているのだろう。 俺が思うにそれはもう、血の繋がりがあるからとかではなく、もっと他の理由で。 「……ゆっくり落ち着け。執務室に戻れば、きっとが待っているだろうからな」 それだけ言うと、その場から立ちあがって静かに光夜のそばを離れた。 もう少し時間はかかると思うが、もう光夜は大丈夫だろう。 そう思い、次はのほうにいくかと、執務室への廊下を歩き始めた。 きっとも光夜と同じで、いろいろ後悔しているに違いないだろうから。 090902(光夜夢!原作の、黒嶺が朱根に攻める半年くらい前のはなし。 このあと夢主は朱根に潜って間者としていろいろやって、そのあいだ光夜はさみしいと思いつつ、 「あいつが間者として頑張ってるんだから、俺もちゃんと頭使って政略方法考えなきゃな」とか思ってます。 夢主も「これが光夜のためになるといいな」とかかわいいことを思いながら間者のお勤め中です。) |