一歩先へと願う声

「こんなところでなにやってるんだ、お前」
「…仙蔵」

ひとりで長屋の瓦に寝そべって空を眺めていると、私の視界ににゅっと現れたのは長髪を風になびかせている仙蔵だった。相変わらず、おうつくしいですこと。ちょっとした嫌味を込めてそう仙蔵に向けて呟く。声に出すと後が恐ろしいので、心の中でだけ。仙蔵は名を呼んだまま微動だにしない私を不審に思ったのか、眉を潜めて「なにやってんだよ、」と先ほどと同じことを私に問うた。何をしていたのか、と言われてもただぼうっと空を眺めていただけである。とくになにも、と再び空を見ながら答えると、仙蔵は溜息をついて私の隣に腰を下ろした。私は仙蔵に溜息をつかれる理由がわからず、そうっと彼へと目を向ける。それに気付いたかのように仙蔵もちらりと私を見ると、呆れたように再び溜息をついた。

「…あの、なんでそんなに溜息つかれなきゃいけないわけ?」
「なにを落ち込んでいるんだ」
「は…はぁ?落ち込んでなんか、いないし。ていうか、そもそも何に」
「小平太と長次が喧嘩したんだってな」

何に落ち込んでいるっていうんだよ、と続けようとしたら仙蔵はそれを遮って痛いところを突いてきた。うぐ、と言葉に詰まって唇を引き結ぶと、ほれみたことかと仙蔵が呆れたような視線を向けてくる。私はいたたまれなくなってそろそろと仙蔵から視線を外すと、仙蔵も私ではなく他の場所へと視線を向けたのを気配で感じた。

天気はとてもよくて、時折ふく風もやわらかくて心地よく、太陽であたためられた瓦からはおひさまの匂いがしていた。こんな日は6年のみんなと馬鹿なことをして、一緒にごはんを食べて、ぐだぐだと誰かの部屋で忍について語り合ったり近況を報告し合ったりして夜を明かして、そんな風に過ごせたら一番なのに、と私はそうっと目を伏せる。現実はどうもうまくいかないらしい。落ち込んでいるつもりは、なかったんだけどなぁ。

、あいつらが喧嘩すると、いつもそうだよな」
「…そんなこと、ないし」
「ある」

即答された。ばれていたのか。私は居心地が悪いやら恥ずかしいやらで、仙蔵に背中を向けるように寝返りをうった。仙蔵は見ていないようで、実はよく見ている。仙蔵のそういったところは理解していたはずなのに、自分も見られていたということにまでは頭が回っていなかったようだ。なんだよ、このしてやられた感は。

仙蔵が言った通り、珍しく小平太と長次が喧嘩をした。した、とは言っても私はその現場を見ていないので、どういう理由があって喧嘩まで至ったのかは分からない。小平太と長次が喧嘩をするのも、珍しいと言えば珍しいが、今までになかったわけではないので別段驚くようなことでもなかった。けれど、私は彼らが喧嘩をするたびにこうやって気分が落ち込んでしまう。思い知らされるのだ。彼ら2人の間には、私が入り込めない何かがあるのだと。

私と小平太と長次は同じろ組で、1年の頃からずっと一緒にいる。私たち3人の中で、突出して誰と誰が仲が良いだの悪いだのということはなかった。けれど、やはり私は彼らには届かないのだ。私が入り込めない何かが、確かにそこにはあるのだ。私はいつからか、目には見えない線引きを感じてしまっていた。

だから私は2人が喧嘩をしても、仲裁に入るということがいつもできずにいる。私ひとりだけが弾かれるような気分になるから。超えてはいけない境界を、見せつけられているような気分になるから。

それが何なのかは分からないし、今となってはもうそれは諦めたことであった。 もしかすると、それは、私が女であることと引き換えに、手に入れられないもの、なのかもしれない。そう、最近では思いつつある。

「あのさ、仙蔵」
「なんだ」
「あのさ…私が男だったらよかったのに、って思うこと、ある?」

背後の仙蔵からは何も感じられなかった。そこは流石最高学年であるというべきか。風にのせられて遠くの1年生の元気な声が聞こえてきて、ああ、私たちにもあんな頃があったな、とゆるりと過去を思い返す。1年生のときは、まさか仙蔵とここまで親しくなるとは思ってもみなかったものだ。

私の正体、つまり性別が露見したのは3年生が終わる直前であった。今思えばよくそんな時期までばれなかったな、と思う。学園側も気付いてなかったのか、もしくは気付いていたけれど黙認していたのか、それは今となっても分からない。だが今もこうして学園を追い出されずに忍たまとして学べているのであまり気にしないことにしていた。今この事実を知っているのは同学年と一つ下の学年だけであり、学園側にいろいろと追及して下級生にも知られるということだけは避けたい。このまま知られずにいれるのなら、どうか卒業までこのままで。

仙蔵からの答えがなかなか返ってこないので、これは答えづらい質問をしてしまっただろうかと自分に呆れた。今まで私からこのようなことを聞いたことはおろか、誰からもこのようなことを聞かれたこともなかった。それは、みんなが優しいから。せっかく言わないでいてくれたことを、掘り返すように尋ねてしまったことに少しだけ後悔する。

「ねぇ、仙蔵。…私は、思うこと、あるよ」
「…」
「そうしたら、小平太と長次が喧嘩したときも仲裁に入ったりできるのかなって。見えない境界線を、飛び越えることができるのかなって、思う。…こうして、仙蔵に迷惑をかけることも、ないだろうなって」

迷惑かけてごめんね、ということを言外に告げる。きっと仙蔵はずっと前から気づいていたのだろう、小平太と長次が喧嘩したときの私の反応に。もういい年だ、そろそろ振り切らなくてはいけないのだろうと、ふと思った。そうしたらこうやって仙蔵に迷惑をかけることもなくなる。けれどそれも、ちょっぴり寂しいかもなぁとそんなことを思ってしまう自分に苦笑した。どうやら私は、自分が気付かないうちに、だいぶ欲張りになっていたらしい。


「ん」
「私は、思わない。睦月が男だったらいいのにとは」
「…そう、なんだ?」

予想に反した答えに、少し返答が遅れた。てっきり、同意が返ってくると思っていたのに。けれど仙蔵の答えは、見えない境界線をよりはっきりと浮き立たせるような気もして、私は気付かれないように唇を噛んだ。

「確かに、越えられないものはあるのかもしれない。無意識のうちに、お互いに境界を引いてしまっているのかもしれない。けど、俺たちの付き合いももう6年目だ。それを気にしないくらいの、そんなものは関係ないと胸を張って言えるだけの、ときを共に過ごしただろう?」

かたん、と瓦の鳴る音がする。仙蔵が瓦に手をついたことも、もう片方の手が私に伸びていることも気配で分かった。だから、という仙蔵の言葉が聞こえる。しろくてうつくしい仙蔵の指が、私の唇をゆるりと撫でた。

「そんな顔、するな」

ゆるゆると、唇を噛んでいたちからを緩めた。仙蔵は唇に触れていた手を移動させて、そのままさらりと私の頭をなでる。その感触に思わず目をつむると、その雰囲気が伝わったのか仙蔵が喉の奥で笑う声が聞こえた。私はそれが恥ずかしくて、未だ私の頭の上に置かれていた仙蔵の手を払いのける。だが払った仙蔵の手はまた私の頭の上へと戻ってきて、私は照れつつ唇を尖らせた。

「からかいたいだけなら、放っておいてよ…」
「なに、ちょっと甘やかしているだけだ」
「子ども扱いじゃん…同い年なんですけど」
「私が甘やかしたいだけだ」

普段とは大きく異なる仙蔵の言動に、なにか変なものでも食べたのだろうか、と一瞬思ってしまった。いろんな意味でどきどきしながら少し身体を動かしてちらりと仙蔵を見遣ると、そこにはやさしい表情で私を見ている仙蔵がいて、私は慌てて元の位置へと視線を戻す。

「もうちょっと、そうやって大人しくしていろ」

再び頭が撫でられる感触と共に、仙蔵が喉の奥で笑う声が聞こえる。私はまたその手を振り払おうかとも思ったのだが、先ほど見た仙蔵のやさしい顔が忘れられなくてこの体制から動くことができずにいた。仙蔵のあんな顔、はじめて、見たかもしれない。そんなことを思っていると頭の上に乗せられている手を過剰に意識してしまって、私は急激に体温が上昇していくのを感じる。今まで一緒に過ごしてきた6年間、こんなことをされたことは一度もなかったのに、一体どうしたというのか。自分の鼓動がやけに大きく脳に響いた。その鼓動が仙蔵の手を伝って彼に気付かれてしまいそうで、すこし、焦る。

今となってはもう、その手を払おうという気持ちなどこれっぽっちも残っていなかった。むしろ私の頭を撫でるその手が心地よくて、私はそうっと目を閉じる。夕方になったら、小平太と長次のところに行って、仲直りしてもらおう。そしてみんなと一緒に夕食を食べて、ぐだぐだとおしゃべりをして、夜を明かすのだ。そんなことを思って小さく笑みを漏らすと、私は意図せずにゆるゆるとまどろみの中へと潜り込んでいく。意識が途切れる直前、仙蔵の「もっと甘やかさせろ、」という呟きが、聞こえた、気が、した。



140203(甘やかしたい立花先輩と、意地を張りたいヒロインのおはなし。久しぶりに満足して書けたなぁ。)