ふう、と無意識に溜息を漏らした。すると、目敏くそれに気づいた楊修がおや、と顔を上げるのが視界に入る。しまった、と思ったときにはもう遅かった。 「珍しいな、溜息なんて。まあ、今日は朝からなんかおかしかったようだが」 「……はいはい、どーせ気付いてるんだろうとは思ってたんですけどね」 自分でも思う。今日の自分はどこかおかしかった。どうも頭が他のことを意識していて仕事がはかどらず、こうやって楊修のもとにさぼりにきている。今頃あの酔いどれ尚書は自分のこの行動に頭をひねりながら珍しく書類をこなしているのかもしれない。 「……何かあったのか」 楊修は言葉を選ぶように、静かに聞いてきた。ただごとではないと、長年の付き合いで分かるのだろう。こうやって自分も楊修の意図が分かるのだから、と思うとなんだか虚しくなってきた。こんなにも自分たちはしょっぱい関係になっていたのか。 嘘をついてもどうせばれるだろうし、話さなくてもそのうちいずれ察するだろうから、それならいまから話したほうがいいだろうと思い、なるべく慎重に言葉を選んで答えを頭の中で紡いだ。楊修になら話しても構わない、と思っている自分に苦笑する。ほんとうに、どうしてこんなやつに自分は心を許してしまったのだろうか。 「姪が、ちょっと複雑な立場でして」 「姪……というと……ああ、殿」 ほら、と思う。楊修はこちらから言わなくても、何ごとも自分で答えを見つける。今も、姪、としか言っていないのに、だと答えを割り出した。何故分かるんだ、と思ったがそれはきっと自分が一番心を入れている姪だからだろうと安易に答えが出てきた。楊修との会話にも、何度か名前は出したことがある。楊修のことだ、きっと欧陽家及び碧家の血縁関係なんかはとっくに頭の中に入っているのだろう。恐ろしい男だ。 「……彼女がどうかしたのか?確かうちの碧珀明の邸で侍女をしてるんじゃなかったっけな。欧陽家の姫としては珍しく」 「……彼女もそちらの珀明と同じなんですよ」 「……ああ、……なるほど」 そうだ。姪のは珀明と同じく、芸才がない。それでも珀明は鑑定眼が碧家の中でも屈指で、それで名を広めている。しかし、には鑑定眼も優れておらず、何も持っていない。―――それ故、自ら侍女となることを志願したのだ。 実は、が珀明の邸の侍女になるよう裏で手回ししたのは、自分だ。それは、もう1つのの想いがあったからだと知っているから。親に勝手に、見知らぬどこかのだれかと早々と婚姻を結ばれないように、……結ばれないうちに、少しでも長く。 「……せめて、珀明のそばで仕えてほしかったんですけれどね」 それが、あの2人の、お互いにとってとても幸せなことだっただろうから。 知っていた。の想いも、珀明の想いも、ぜんぶ。きっとこれは、中央官吏としてひとの表情や感情に敏感となっている自分でしか気付かなかったであろうこと。だから、自分がなんとかしなければいけないと思った。―――思ったから、裏回しまでしてでも、を珀明の邸で仕えさせたのに。 楊修は自分がとぎれとぎれに呟く意図を察しているのだろう。少し困ったように微笑んで、もう冷めかけれいるお茶に手を伸ばした。 「……殿は、お前の邸の侍女にまわりたいと、言ってきたんだろう」 「……ええ」 やはりなんでもお見通しだ。もう隠してもしょうがない、と思ったので今度はおもむろに吐息を零した。 昨日、邸に帰ったらがいると聞いて、何事だろうかと思い話を聞けば、半分予想をしていた、―――しかし聞きたくなかった、願いがの口から告げられた。 『玉さま、……私を欧陽家の侍女に、まわしてくれませんか?』 そう言って頭を下げたの顔は薄く微笑んでいて、けれど自分の目から見れば彼女がどう思っているかは明白だった。もう決意した瞳をしている彼女に否と答えることは出来ず、けれど是と答えることも出来なかった。―――これほど自分の行いを、後悔したことは無いかもしれない。 「……後悔したのか?」 「……かなりね。が珀明の邸にいて、幸せだったのは知ってます。……けれど、もうあの子も15、です。……もっと早くに気付くべきでした」 「時期を怠るなんて珍しいな。……でも、殿に婚約話が来たわけではないんだろう?なんでまた」 「……珀明か、碧本家か欧陽家本家か……誰かが告げたのかもしれませんが、……聡い子ですから、気付いてしまったんでしょう」 そう言って自分もお茶に手を伸ばす。「聡い子、か」と楊修が呟くのが聞こえた。きっと今はお互いに、気の毒に、と思っているのだろう。 聡い子だから、周囲の思惑に勘付いてしまったに違いない。珀明が想いを寄せているのを、悟った人がいたのだろう。それを邸中にひろめるのも難しくはない。珀明は碧家直系の血を持つものであり、―――それに相当する姫を持たなければならない。珀明の姉の歌梨が欧陽純と婚姻を結んだのは例外であり、それに歌梨は女子であったため、そのようなことが許された。しかし、実際にはこのようなことが容易にあってはならないのだ。―――は、身を引くしかなかったと、分かっている。けれども、あまりにも、……可哀想だった。 「……どうするんだ」 「……分かりません、が、……たぶんうちに引き取ることになるでしょう」 それでも彼女が、他の誰かと婚姻を結ぶのではなく欧陽家の侍女としての道を選んだのは、―――まだ光があるから。幸せな道を進むのは、もう難しい、けれど、不可能ではないことを知っている。だから、まだ可能性があるほうを選んだのだ。……もまだ、諦めてはいないということである。 楊修もそれを悟ったようで、口元を緩ませて告げた。 「しかし、……まだ可能性はあるだろう?」 「……ええ。なんとかします」 「だろうな、なんたって可愛い姪のことだしな。うちの珀明も、なるべく幸せになってほしいし」 なんとかして、その残っている可能性を不可能ではなく可能にしなければいけない。それまでどれだけの時間がかかるか分からないし、時間があるのかも分からない。―――けれど。 「お前も、殿には幸せになってほしいだろ?」 その楊修の問いに、ふっと笑みがこぼれた。答えはもうとっくの昔に決まっている。 「当たり前です」 |
欧陽侍朗と話し込んでいた楊修さまが、どうやら戻ってきたようだった。どんな話をしていたかは知らないが、欧陽侍朗が吏部に姿を現したのを目に留めるとすぐにある室に引っ張って話していたようなので、私事ではないのかと思った。実は仲がいいと小耳に挟んだことがある。 丁度欧陽侍朗に用があったのでそのまま楊修さまと入れ違いになる際、何故か楊修さまは立ち止まって僕の頭をぽんと叩くと、一言告げた。 「幸せになりなさい」 「…………は、」 声に出したとおり、何なんだといった顔をすると、楊修さまは鮮やかに笑んでそのまま通りすぎていった。一体なんだったんだ。 そして欧陽侍朗を訪れると、これはまた楊修さまと同じように「幸せになってくださいね」と言われて笑みを向けられた。意味が分からない。貴方まで何ですか、という顔をすれば、欧陽侍朗は「いずれ分かりますよ」と言って僕の持っていた書翰をすっと受け取り持って行ってしまった。 結局なんだったんだ、と首を傾げるが、欧陽侍朗の最後の言葉が、やけに耳に残ったきがした。 090310(珀明くん夢のはずなのに、肝心な2人がでてきてないという…ヒロインちゃんなんて名前だけ(笑)ヒロインちゃんはどうでもいいことなのに考えてしまって、これが自分と珀明くんにとって最善の道だ、と勝手に思っちゃって離れて行っちゃうんだろうなあ。 |