『玉さま、……私を欧陽家の侍女に、まわしてくれませんか?』 玉さまの邸に赴いてそう告げたのが、つい先日のように思える。しかし、実際にはもう既に10日以上が経っているのだ。そしてあのときの玉さまの反応を思い出し、小さく息を零した。――きっと困らせたし、悟られただろう。 けれど侍女をやめるのはなく、玉さまの邸にまわしてもらおうと思ったのは――我儘な、想いがあったから。けれどそれさえも、玉さまは気付いているのだと思う。だからだと思うが、先ほど玉さまの邸からの使いが来て是との返事をもらった。邸主に告げたら来なさいと、書かれていたその文は大切に懐にしまってある。 (……珀明さま……) ずっと、あなたのお傍でお仕えしたかったのは、ほんとうなのです。 侍女になると決めたとき、その勤め先が珀明さまの邸で嬉しかったのには間違いない。今も、ここで侍女として働けてよかったと思う。けれどそれは、あってはならない想いがあったからであって。 その想いを誰にも告げることなく隠し通してきたのは、優しさにあふれているこの邸で、ずっと変わらぬまま過ごしていきたかったから。けれど、知ってしまった。 珀明さまと共に年を重ねるにつれて、じんわりと、分かってきたことだった。誰かに言われたわけでもないが、自分で気付いてしまった。……こんな感情をもったまま、珀明さまのお傍にいては、いけないということを。 (もう、さよならかあ……はやいなあ) 珀明さまの邸に来たのは何年前だろうかと思い返せば、あれは私が8歳で珀明さまが10歳のとき――いまから、7年前だ。あのときは、幼いながら一族の重みを理解していた珀明さまに、思慕みたいなものを抱いていた。あのひとの、そばにいたいと思った。けれどそれは年を重ねるにつれて、他の感情になってしまった。――抱いてはいけなかった、感情へと。 思い返すと、この7年間がすごく短く感じた。……当たり前だ。人の一生のうちの7年間というのは、短い。 不思議と哀しくはなかった。ただ自分でも驚くような、此処を去るのだという事実しかなかった。――けれどそれでも、まだ――。 (……そばにいたい…っていうのは、……うそじゃないけど……) 未練がましいなあ、と思って苦笑しながら額に手をあてた。そろそろ割り切らないと。 そのとき、玄関のほうが騒がしくなり、珀明さまが帰ってきたのだと分かった。遠くて聞こえにくかったが、「夕餉はいい。室に篭ってる」という珀明さまの声が聞こえる。疲れている声色だと、遠くからでも分かった。侍女頭の心配そうな声が聞こえて、そして静かになる。珀明さまは室にお戻りになられたのだろうか。だったら、……最後の挨拶に行かなくてはと、立ち上がった。 ゆっくりと廊下を歩きながら、ここを歩くのも今日が最後か、と思うとなんだか寂しく思えてきた。7年という月日は、一生の間では短いが、私をこの邸に慣れさせるには十分すぎる期間であった。廊下の柱にまでなんだか愛着がある。寂しいなあ……でも柱は寂しくないだろうけど。 「……か?」 「あ、え、……珀明さま」 柱に手をついて愛着を確かめていると、後ろから珀明さまの声が聞こえて吃驚した。しまった、変なところをみられた。まだ室にお戻りになってなかったのか。 ちらりと伺うと、まだ官服のままで髪も解いていない様子だった。今日は遅かったですね、と言うとまあな、と返事が返ってきた。しいん、と静かな沈黙が流れる。重い。 「……あの、ちょっと、よろしいですか」 「……あぁ。なんだ」 沈黙を破って、今回の目的を言おうと話を切り出した。珀明さまはとくに室に戻りたいと思っているようではなかったので、そのまま廊下で言うことに決めた。侍女頭にはもう言ってあるし、たぶん誰も聞いていないだろう。 小さく息を吸うと、くちびるが震えるのが分かった。わたしも、弱いなあ。 「明日から、伯父の欧陽玉さまのところで仕えることになりました」 そう告げると、珀明さまが小さく息を呑むのが分かった。驚いたという、表情をしている。私はにこりと微笑んで、頭を下げた。 「……長いあいだ、ほんとうに……ありがとうございました」 おもいっきり心を込めて、感謝の言葉を述べる。ありがとう。ありがとう。ほんとうに、ありがとう。この邸で過ごした7年間、思い返せばいつもとなりに珀明さまがいた。新明に思い出せる、この7年間。長くはなかったが、短いわけでもなかった。 数秒頭を下げたままでも、珀明さまからの返事はなかった。どうしたのだろうかと思うが、珀明さまの顔を見るなんてことはできなかった。いまは自分のことで精一杯なのだと、そのとき分かる。私自身がなんだか泣きそうだと、ふと思った。 最後の力を振り絞るようにして、顔をあげた。それでも珀明さまを直視できるはずはなく、右斜め横の庭を見つめる。あとひとこと。あとひとことだけ言わなくてはと、小さく唇を開いた。 「……さよう、なら」 最後のことば。これで終わりなのだと、思った。 |
最後の言葉を告げると、もう一度だけ頭を下げて、珀明さまの隣を通り過ぎた。ゆっくりとした足取りが、しだいに速くなっていく。涙が頬を伝うのが分かった。瞬きを繰り返すたび、頬から零れ落ちる雫は止まることを知らないように流れていく。 「……、……う、」 初めて、さようならという言葉の重みを分かったような気がした。こんなにも、大きいものかと口を引き結ぶ。 ひっく、と小さく嗚咽を漏らすと、涙が尚更溢れてきた。だから、漏らしたくなかったのに。瞳を右手で擦ると、ふと、人の気配がして手をつかまれた。 「……、」 「……玉、さま……」 顔を見なくても、声だけで分かった。あまり物分りのよくない父と母のかわりに、私の話をたくさん聞いてくれた大切なひと。そして、とてもとても、やさしいひと。私がここで働けるようにしてくれたのは実は彼だと、ほんとうは知っている。 玉さまは私の右手首ひっぱって廊下の陰へと移ると、私の頭を優しく撫でた。なにもかも、きっとお見通しなのだと思った。私の想いも、行動も、心境も、すべてが。 「……わ、わたし、は……っ、」 「……知ってます。大丈夫ですよ」 声をあげて泣きたくなった。私の頭を優しく撫でる玉さまの官服に顔をうずめると、いい香りが鼻孔をくすぐる。落ち着くような気がした。 けれど、珀明さまとの「さようなら」は変わらないのだと思うと、やはり、涙がおさまることはなかった。 090117(前のおはなしの続きです、まだ続きそうだなあ…。今回の名前変換は1つしかないという(笑)きっと、珀明くんもヒロインちゃんも勝手にいろいろと空回りしちゃうんだろうなあ) |