「ちゃん、いるかしら?」 「……春華さま」 もう日も落ちて、薄暗くなってきたころ。 玄関のほうが少し騒がしかったので玉さまが帰ってきたのだろうと思い、お茶を入れるためのお湯を沸かしているときだった。 わたしも今日から欧陽家の侍女となったことだしあとで部屋に伺って挨拶をしなければ、と思いながら茶器の準備をしていると、給湯室に春華さまの声が響く。 どうもいままで呼ばれたことがなかったので「ちゃん」と呼ばれることに違和感とはがゆさを感じつつ、手に取っていた茶葉の筒を置いた。 「あの、いまお茶の準備を……」 「え?あら、……まぁそれは私がやっとくから、今すぐ玉さまのところへ行きなさい」 「へ?え……ええと……?」 「玉様が呼んでいらっしゃるの」 「……わたしを、ですか?」 顔を縦に振った春華さまを見て、わたしの聞き間違いではないのだと理解した。 丁度あとで伺おうと思っていたので別にかまわないのだが、呼び出されるのと自分から伺おうとするのではちょっと違う。 なんだか悪いことをしたそのお説教みたいで、行くのがちょっとはばかれた。 きっと、たぶん、わたしが今日から欧陽家の侍女になったからだと思うのだが、実際に昔、呼び出されてお説教された経験もあるので気が重い。 気乗りしないまま玉さまの室に向かい、どうしようかと数秒迷ってから、気を引き締めて軽く扉を叩いた。 「……です」 「あぁ、お入りなさい」 お説教じゃありませんように、ともんもんと願いながら扉を軽く押した。 すると内側からも扉を開けようとしたのか、思いのほか簡単に扉が開いてしまう。 余った力の分だけ前に倒れそうになり「わわ……!」と小さな声をあげた。 「ふむっ……」 倒れることはなく、やはり内側からも扉を開けたのだろう、扉の前にはひとがいて、そのひとに受け止めてもらう形になった。 かすかに香る匂いで玉さまではないと判断できる。いったい誰だろうか。 「……殿、ですよね?」 「え?は、はい、……と申し、ます」 なんで受け止めてくれたひとに、受け止められたそのままの体勢で名前を確認されているのだろう。 どうでもいい疑問が脳裏をかすめたが、受け止めてくれたひとがわたしの名前を知っていることに驚いた。 玉さまが教えたのだろうか、と思いながら自分の力で身体をもとに戻す。 そこで初めて受け止めてくれたお客さまの顔を見た。 「……あの、失礼ですが……」 「なんですか?」 「お会いしたこと、あります……よね?」 顔のつくりは見たことあるし、表情も覚えがある。しかし、髪型がどうも記憶のなかに存在していなかった。 毛先は茶だが根元は黒であるこの髪の色も、珍しく肩のあたりでそろえられている短髪もいまこのとき初めて見る。 自分の記憶力や人の顔と名前を覚えることには自信があった。 でも、分からない。見たことがあるけれど、記憶になくて、けれど会ったことがあるような気がする。 不思議なことに首をかしげていると、くすりとお客さまのかすかな笑声が聞こえた。 ふいに顔をあげると、奥で椅子に腰かけている玉さまが手招きをしているのが見える。 「こっちにきなさい」の合図。 もしかしてお客さまに非礼をしてしまったのだろうか、とサッと青ざめながら、早足でお客さまの脇をすり抜けて玉さまのもとへ行き、玉さまの前で跪いた。 「あ、あの……」 「あぁ、怒ってませんよ。落ち着きなさい」 「……申し訳、ありませんでした……」 「だから怒ってませんって。ほら、顔をあげなさい。堅苦しい挨拶は無用です」 とりあえず誤ると、玉さまが困ったような声を出すのでそろりそろりと顔を上げた。 するとやはり、少し困ったような顔をしていたので跪いていたのをやめて、立ちあがる。 「……あの、御用はなんでしょうか」 本来ならばここで働くことになった旨の挨拶をしなければならないのだが、どうやら玉さまのお知り合いがいるようなのでやめた。 小さく笑みを浮かべてそう言うと、玉さまはお知り合いに「楊修、」と声をかける。 楊修さま、というのだろうか。 「このひとがあなたにお会いしたかったらしいです。適当に相手してやってください」 「え、……は……?……あ、相手、ですか……?」 侍女のわたしにそんなこと言われても。 そう思って口の端をひくつかせていると、楊修さまが近づいてくる足音が聞こえた。 慌ててふりかえり、跪こうとすると楊修さまの手によって止められる。 「礼はいいです、貴女の仕えるべきひとは私ではないはずでしょう」 「あ、え、……はい」 なんだか変なひとだ。 そう思いながら立ち上がると、優しい笑みを向けられる。 その笑みを見て、いいひとだと、直感的に思った。 「遅れましたが、楊修といいます。あなたの主の同期です」 「え、ええと、です。玉さまの邸で侍女を務めさせていただいております……」 「はい、存じてますよ。あと、もうひとつですが、以前会ったことはありますよ。姿は全く違いましたけど」 「あ、う、も、申し訳ありません、失礼しました……!」 やっぱりあったことがあったのだ。なのに「お会いしたことありますよね?」なんてなんて失礼をしたんだわたし。 玉さまの同期という方になんというご無礼を、とあわあわと思っていると、くすりと先ほどと同じような微笑が聞こえた。 「……やっぱりお前の姪にはもったいないな」 「なにを言うんです。それともう用は済みましたか」 「ああ、もう少し待ってくれ」 楊修さまがわたしが玉さまの姪だということを知っていたことに少し驚いた。 そして玉さまと楊修さまの話を聞いていると、どうやらおふたりは仲がいいのだろう。 もしかしていままでの話題のなかにわたしのことが入っていたのだろうか、と考えながら、楊修さまにあの、と声をかける。 「……失礼ですが、楊修さま、御用はなんでしょうか……?」 おそるおそる、といった様子でそう告げると、楊修さまはにこりと微笑んで、わたしの頭に手を伸ばした。 そしてくしゃくしゃと頭をなでると、わたしに目線を合わせてかがみこむ。 「貴女の望んでいることは、なんですか?」 「え……?あ、あの……?」 「少しだけでもたくさんでもいいので、欲しいものはなんですか?言いなさい」 唐突な問いに目を丸くするなか、玉さまが驚いているのが見えた。 何に驚いているのかいまのわたしには考える余地もなく、“望んでいることはなにか”という問いに返す答えを必死で探す。 なにを、いくつ、わたしは望んでいるのだろう。 ひとつやふたつなんてそんなに少なくはないし、ちっぽけなことは望んでなんかいない。 わたしはそれだけで満足できるほど、いい子じゃないから。 でもたくさんを望んでいるわけでもないし、どうやっても無理なことを望んでいるわけではない。 望めば望むほど、落胆と失望を目の当たりにすることをいつのまにか知っているから。 「……どれだけでも怒りません。呆れもしません。あなたを失望させたり、落胆させることもしません。 言いなさい、どれだけでもいいから、貴女の望んでいることを。貴女が、欲しいものを」 わたしが、ほんとうに、ほしいもの、のぞんでいるもの。 「……わたし、は、……欲張り、なんです」 「構わないです。言いなさい。――叶えてあげます、どんなことも」 玉さまが部屋を出て行くのが視界の隅に入った。 気を利かせてくれたのかは知らないが、助かった、と思う。 望んでいるもの、欲しいもの、それはもうどうにもならないのではないかと思っていた。 けれど、違うかもしれない。なんとかなるのかもしれない。 いつもは他人の手を借りて願いを叶えるなんてことは嬉しくないのに、このときだけは、自分の願いすべてを、聞き入れてもらえるような気がした。 そしてぽつりぽつりと、気付けば願いを告げていた。 |
しばらくするとが慌てた様子で出てきて、そしてそれからまたしばらくしてから楊修が出てきた。思ったより早かった。 とは違い、楊修は私に気づいたようでこっちに歩を進めるのが見える。 「……早かったですね」 「いや、殿はなかなか情報処理に優れているようだったな。部下に欲しい」 「可愛い姪をあなたの部下になんかやるつもりはサラサラありませんからね」 「にしては、教養はしっかりしているようだかな」 私と同じように、楊修もトン、と背中を壁に預けた。夜なので涼しい風がすり抜ける。ここは廊下なので、やや寒い。 「……誰に似たのか、本と勉強が大好きな姪のようで」 「――あぁ、だからお前が面倒見てるのか」 両親の理解が得られないようで、私が面倒見てるんですと、いつだったか聞いたことがある。 それはこのことだったのかと思うと同時に、隣の友人を思って自然と頬が緩んだ。 「なんです、気持ち悪い」 「なんだと。……でもまぁ、なかなかの賢い姫だな、本当にお前の姪としては惜しい」 「うっさいですね、要件が済んだのならさっさと帰りなさい。軒なら使ってくれて構いませんので」 「じゃあそうさせてもらう。……大事な可愛い姪を、お大事に」 そう言うと、楊修は踵を返して玄関へと向かって行った。 との会話の答えを知りたいわけじゃないが、楊修のあの顔をみる限り、自分でなんとかできる範囲だったらしい。 なにかあれば向こうから声をかけて来るだろうし、日常業務もあるので無理もしないだろう。 気になるけれど、とりあえず様子を見るか、と自分の室へと歩を進めた。 090810(またまた続きです、そしてまだ続くのか…!久しぶりの珀明夢更新です、前話書いたの1月とかひぃぃ…!そして妙な展開へ…大丈夫なのか私。 珀明夢のはずなのに、珀明君出番なしとかもうほんとなに夢だってかんじですよね。笑っちゃう。あっはっは。) |