「…え?」 「ですから、州牧になりました。碧州に帰ります。しばらく貴陽には戻ってこないと思われますが、貴女私がいなくてもちゃんと生活してくださいよ。私はもういないんですからね」 「え、ちょ、…ぎょ、く」 「まだ紫州には蝗害の被害があまりないようですが…今年の冬を越すのは、大分苦しいはずです。食べ物に困ったら迷わずうちの邸に来なさい、家人たちにもよく言っておきますから」 「ぎ、玉っ、」 「…時間がないんです。いいですか、よく聞きなさい、。…絶対に死なないこと。ちょっとでも不安を感じたらうちの邸を頼ること。私と連絡を取りたければ全商連の鷹文を使うこと。誓いなさい」 「玉、玉っ、待ってよ!待って…き、急すぎるわよ馬鹿…!」 前触れもなく急に私の邸にやってきた時点で、なにかおかしいなとは思った。いつもはたとえ直前ではあっても前もって訪問の伺いの文が来る。たとえそれが形式上だけのものだとしても、その“形式”を玉が怠ったことはなかった。それは彼が彼である所以であり、それほど私のことを大事にしてくれていたのだと思う。 碧州や紅州がいまどんな状態であるか噂には聞いていたし、玉がどれだけ碧州を大事に思っているかも知っていた。最近私のところに顔を出すのが減ったことにも気付いている。仕事が忙しいのだろうとも思ったし、実家が大変な状態のときに恋人のところに足を運ぶ気にはならないのだろうとも思った。同じ碧州出身として、それは私も同じ気持ちだったからだ。けれど、いくら彼や自身の現状を理解していると言っても、寂しいものは寂しい。会えないと不安になるし、勿論心配になる。そんな中、やっと会えたと思ったら「碧州州牧になりました」なんて言われて、私がどれだけ、どれだけ待っていたかも知らないでこの男は、今度は私の手が届かないところへ行こうとしているのだ。 「急なのは謝ります、すみません。…絶対に帰ってきますから、待っててください」 「ま、待ったわ、玉、私もう十分に貴方を待った!…まだ、貴方は私を…今度はひとりで、待たせるの…?」 「…こんな危険な綱渡りを、貴女にはさせません。、待っててください。そうしたら私は絶対に帰ってこれますから。何があっても帰ってこようって思いますから」 「そんなの、そんなの玉の独りよがりだわ!」 悲しいのか悔しいのか、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。玉はそんな私を切なそうな瞳で見つめながら、涙の筋をぬぐうように私の頬を撫でる。今日初めて感じた玉の温もりが、寂しくて、安心して、更に涙が溢れた。 感性が鋭くて、自分勝手で、性格悪くて、でも奥手で、不器用で、ちょっとかわいい大切な幼なじみ。誰よりも同じときを多く過ごした、私の一番の理解者だった。玉が国試を受けるときには仕事を口実に、けれど実際には玉と離れたくなくて一緒に居たくてついて来た。あのときはただ幼なじみが貴陽に行くのが寂しくて羨ましかっただけだったが、それはいつの間にか恋慕の情に変わっていて。子供みたいな幼なじみという関係から抜け出して恋人同士になってからも、対して何がが変わったわけではなかったけれど、それでも玉は確かに私のことを愛してくれていたと思う。 それでも玉が「一緒に暮らそう」だとか「結婚しよう」だとかを言い出さないのは、家の事情云々というわけではなくただ彼が奥手で不器用なだけだと分かっていた。馬鹿なのだ、この人は。とんでもなく馬鹿で、やさしくて、私のことを大事にしてくれるから、つらかった。私を喜ばせたいなら、かわいい服でもなく、綺麗な簪でもなく、たったひとことを告げればいいだけなのに。 「…独りよがりでも構いません。貴女が大切なんです」 「わ、分かってるわ、貴方がどれだけ私のことを大事にしてくれてるか、分かってるのよ。でも、私も貴方が大切なの。生まれ育った碧州が大切なの」 「…それでも、貴女は置いていきます」 「玉っ!」 「…お願いです、…待っていてください、」 「…い、いやよ、」 「…、」 「玉…私はもう、待てないわ」 「…」 「もう、待てない」 ぽつりと、そう告げる。ぐしゃぐしゃになった顔を隠すように両手で覆いながら、肩を震わせて泣いた。もう、待てない。玉がこの言葉をどう解釈するかは謎だったが、それが今の私が出した答えだった。 しばらくすると玉が大きく溜息をつくのが聞こえ、びくりと身をすくませた。呆れられたかな、面倒くさい女だって、もういらないって捨てられるのかな。次の玉の言葉を聞くのが怖くて、けれど玉の声が聞きたくて、心臓が破裂しそうなくらい激しく鳴った。まだこんなに、こんなにも玉のことが好きなのに、どうして上手くいかないんだろう。 そう思ったところで急に玉によって顔を覆っていた両手を剥がされ、びっくりしているうちに玉の両手が私の両頬をすくいあげた。きれいな、呆れを帯びた瞳とかちあう。いろんな意味で、心臓がひときわ大きく鳴った。息、が、上手く吸えない。 「…」 「ぎょ、く?」 「…本当は、連れていきたいです。今すぐ掻っ攫ってできるなら婚姻でもしたいですよ」 「こっ、こんいん?!」 「例えば、例えばですよ。貴女を貴陽に置いていくとして、家人たちによろしく言っておくとしても、そりゃ心配しますよ。変な男になびいてないかだとか、変な賃仕事に手を出していないだとか。本当は連れて行って傍に置いときたい。愛してるんです、」 「あ、あい、」 「でも大切だから、貴陽に残していきたかったんです。…なにがなんでも、残していくつもりだったんですけどねぇ」 はぁ、という玉の大きな溜息が聞こえると同時にぎゅっと身体をすっぽりと抱きしめられる。今日の玉は変だ。あ、ああ愛してるだとか、こ、婚姻、だとか、普段なら絶対言わない。こうやってぎゅっと抱きしめられるのも、そうないことだ。急激に顔に熱が集中するのが嫌でも分かる。玉は私の肩口に顔を埋めているので、顔を見られることがないのは幸いだった。 先程まで溢れて止まらなかった涙はいつの間にか引っ込んでおり、私は玉の急な行動におたおたと戸惑いながら彼の背にそっと腕を回した。少し力を入れて抱きしめると、それに気付いた玉がそれよりも強く私を抱きしめてくれる。え、なに、これ。私たちはこんな甘ったるいような恋人同士じゃなかったはずなのだが。 「ぎ、玉?」 「…碧州に、」 「え?」 「碧州に、ついてきてくれますか」 「え…それ、」 「時期が時期ですから、すぐに式を挙げるのは無理ですけど…結婚するのに、両親の了承は必須ですからね」 慌てて横を向いて玉の顔を見ようとするが、やはり彼の顔はまったく見えなかった。けれどなんとか視界の隅に捕らえることができた彼の耳が赤く染まっているのを見て、私はぎゅっと瞼を閉じる。しあわせで、うれしくて、玉の背中に回した腕に伝わる体温が、とてもいとしかった。 感性が鋭くて、自分勝手で、性格悪くて、でも奥手で、不器用で、ちょっとかわいい大切な幼なじみ。そんな玉の愛を全身に受けながら、滲んできた涙をこらえるように「置いてったらゆるさないからね、馬鹿、」と彼の耳元で呟いた。 120919 |