「シリウス、コーヒーいれたら飲む?」
「んー、飲む」
「じゃあいれよっと」

慣れた手つきでコーヒーメーカーに水を注ぎ、ペーパーフィルターを敷いて上の棚から豆の入った缶を取りだした。カン、カン、と時折音をたてながら豆を2人分入れ、スイッチを押す。そしてそのままマグカップとスプーン、そして冷蔵庫からは角砂糖が詰めてあるビンと牛乳を取りだした。シリウスは砂糖や牛乳を一切使わないのだが、毎日のようにコーヒーを飲んでいるのにどうして彼の胃は正常なのだろうか。ちょっとやそっと荒れてもおかしくはないというのに、日々チキンを食べたいとせがんでくる彼である。本当にどんな胃をしているんだとほとほと呆れた。

先月買ったばかりのこのコーヒーメーカーは、前に使っていたのと比べてドリップが終わるのが早く、既にコポコポとドリップが終わりに向かっていることを告げていた。あともう1分くらいかな、と目星をつけて顔をふとあげると、キッチンとリビングを隔てているカウンターの向こうにいるシリウスと視線がかちあう。それに、なに、という思いを込めて小さく首を傾げると、シリウスは口をもにょもにょと言い辛そうに動かしながら、首の後ろを掻いた。これは彼が恥ずかしがっているときの癖である。何を言われるのか、と軽く身構えながらコーヒーメーカーを覗きこんだ。もうそろそろだろうか。


「んー」
「…結婚する?」
「んー……んえ?…えっ?!」
「結婚」
「け、ケッコン…」
「そう。どう?」
「ど、どうって…どうなの?」
「それをいま俺が聞いてんだけど」

そっか、そうだよね。そう呟きながら私は前髪を整えるように触った。いつだったかシリウスに言われたことがある、それは私が恥ずかしがっているときの癖であると。こうやってお互いの癖が見抜けるほど、私とシリウスはお互いのことをよく知っていた。それだけの付き合いがあるのだ。

私はとりあえず、とコーヒーをいれながら頭の中を整頓する。その間、シリウスは私の混乱が分かっているのか何も言ってこなかった。どうしよう、結婚って、結婚って、そんなことはまだまだ先の話だと思っていたのに。今までに考えなかったわけではない。ただ、まだ自分たちに結婚という一大イベントは早すぎると思っていたし、シリウスもそう思っている節があるのだと感じていた。だからこんな、同棲という中途半端な関係を私たちは保ち続けているのだ。結婚はまだ早い、でも一緒にいたい。

実際、同棲しているといっても私とシリウスの生活は仕事上すれ違うことが多く、特にシリウスは勤務時間がハッキリしていないことが多いので、こうやって今みたいに一緒にコーヒーをいれてゆっくりすることなんて本当に稀だ。これで結婚という、新しく、けれども不明瞭な段階を経たとしても、何かが変わるのだろうか。戸籍だとか、世間からの対応だとか、そういうのは抜きにして。何かが、良い方向へ転がるのだろうか。

結局そうやって頭の中でぐるぐると考えているとコーヒーが出来あがってしまい、私は小さくため息をついてからマグカップを両手に持った。そのままカウンターをまわってシリウスが座っているソファーの隣に腰掛ける。コトリ、と新聞を読んでいるシリウスの正面にマグカップを置くと、私は自分のマグカップを手にしたまま背もたれに深くもたれかかった。

「…なんで、急に」
「…反対か?」
「そうは言ってない。ただ、理由を聞いているの」
「…遅かれ早かれ、と思ってたし」
「うん」
「早いのに越したことはないだろ?」
「…お金の問題とか、あるでしょう」
「そんな心配はしなくていい、…って言えたらいいんだけどな。ただ、豪華なのを望まなかったらひとまず心配はいらねぇ」
「望まないよ、それは望まないけど…。…理由は、それだけ?」
「あぁ」
「嘘だ」
「うそじゃねぇよ」
「シリウス、嘘をつくとき、私の眼を見ない」

そこでシリウスははぁ、と小さなため息をひとつ零した。ため息をつきたいのはこっちだ、ばか。なぜ私はこの期に及んで嘘をつかれなくてはいけないんだ。

コーヒーを口に含みながら後ろに体重をかけると、ギシ、とソファーが軋んだ。砂糖と牛乳の入り混じった、苦すぎない味が心地よい。シリウスはマグカップを手にしながら少し考えるような動作をして、そしてやがてマグカップをテーブルに戻した。そして降参、とでも言うように苦笑を漏らしながら小さく両手をあげる。

「悪い、言うよ。…仕事が、結構ヤバい」
「ヤバいって…どんな」
「もう少ししたら、毎日帰ってこれなくなる。怪我して帰ってくるかもしれないし、ものっすごく機嫌悪くして帰ってくるかもしれない。考えたくないけど、もう帰ってこれなくなるかもしれない」
「…それと結婚が、どう繋がるの」
「今でもそうだけどさ…絶対に、帰ってくるっていう気に…なるから。…帰る場所が欲しい」
「そ…、…シリウスの帰る場所は、今だって、ここじゃん…」
「あぁ、そうだよ。でも、でもさ…あぁ、悪い、直球で言う」
「え?」
「…確かな繋がりが欲しい。こんなあやふやなものじゃなくて、憲法上の。ちゃんとした」

今度は嘘じゃなかった。まっすぐに私の眼を見て言うシリウスは真剣そのもので、私はひく、と口を震わせた。そしてしばらく経って、ようやく絞り出すように「ちょっと、考えさせて」と呟いたのだった。




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