![]() 結局その日の夜はろくに寝られず、寝不足だなんていう可愛い程度の隈では済まなかった。瞳を閉じて瞼をマッサージしながら、はぁ、とため息が漏れる。今日のシリウスは遅出だと言っていたからまだ寝ているはずだ、そしてそれは私にとっては好都合であった。昨日の今日だ、シリウスがそんなに私を急かすとも考えられないが、だからと言ってそう長い間待ってはもらえないだろう。昨日シリウスは「もう少ししたら」と言っていたが、その「もう少し」が一体どれくらいなのか。明日明後日の話ではないことは確実であるが、あの様子だと1カ月はもうないに違いない。もしかしたら2週間後、ということもありえる。彼の仕事上はっきりとした期日は分からないものの、この問題は早急に答えを出さざるを得ないということはひしひしと分かっていた。はぁ、ともうひとつため息が漏れる。 考えさせて、と言ったものの、よくよく考えてみればそう考える事柄は多くは無かった。遅かれ早かれ結婚するなら早いに越したことは無い、とシリウスが言っていたのも嘘ではないと思うし頷ける。仕事が忙しくなるまえにちゃんと戸籍を入れて、帰る場所が欲しいと言ったのも。けれど私はそれに簡単に頷くことはできなかった。なぜか。その答えはもうとっくに気付いていた。怖いのだ。 戸籍を入れるだけで何が変わるのか、と昨日は混乱の最中であったし漠然と思っていた。けれど一晩考え、頭が冷めてくると痛いほど分かる。変わる、確実に、何かが変わる。だから私は怖いのだと、理解はしていた。ただ理解というのは心理的なものとは程遠く、頭が受け入れられても心が受け入れられるのは難しい。それは今までの経験上分かっていた。だからこそ、戸惑う。立ち止まる。結婚、という一歩を踏み出せずにいる。 「?…なにしてんだ?」 「シっ…シリウス、…あれ、今日遅出じゃ」 「だからって惰眠を貪るのは身体によくないだろ」 毎日ブラックコーヒーをがぶがぶ飲んでるおまえが言うな、と思ったけれど口には出さなかった。きっと3倍で帰ってくるに違いないからだ。ああ言えばこう言う、しかも3倍返しときた。なんてやなやつだとつくづく思う。けれどそんなシリウスが好きなのだから、惚れた弱みというやつはなんとも恐ろしい。くぁ、とあくびをして目に涙を浮かべている姿はいとしい他ならなかった。ハンサムな人はなにをしてもハンサムらしい。神様はいじわるだ。 「…、目、」 「め?」 ふと伸びてきたシリウスの右手が私の左頬に触れ、目下をさらりと撫でられる。隈のことか、と思いながらふいと目を背ける刹那、シリウスの苦い顔が見えてぎくりとした。責めるつもりはまったくないし、シリウスに悪気があるわけじゃないのは分かっている。それでも自分のせいだと責めるのだろう、このひとは。自分の身体には無頓着なくせに、と思いながらシリウスの手をそっと振り払った。 「…仕事いく、準備しなくちゃ」 「あ、あぁ」 「ご飯、自分で作って食べてね?私、時間ないからなにか買って行くから」 「あぁ。……、」 「あと、あと、今日、仕事ちょっと遅くなる」 「分かったから、なぁ、」 「シリウスも仕事遅れないようにね」 「、俺の話を聞け!」 ぎゅっと肩を掴まれて、反対の手で顔を正面に向かせられる。シリウスの瞳の中に浮かぶ私はなんとも情けない顔をしていた。そんな私の表情を見てシリウスは一瞬瞳を揺らし、力を緩める。けれど、何度かまばたきして唇をかみしめると「、」と優しく私の名前を呼んだ。 「…ごめん、そんなに悩ませるつもりは、なかったんだ」 「わ、わかってる!わかってるから、謝らないで…」 「昨日の言葉、なかったことにしてもいいから。…そんなに悩むな、俺が不安になるだろ」 「し、りうす…」 上からすっぽりと抱え込まれるようにして、ぎゅっと抱きしめられた。強すぎない、むしろいつもより弱いんじゃないかと感じるくらいの抱擁。それが彼の言葉を裏付けていた。私だってシリウスにそんな顔をさせるつもりも、そんな不安にさせるつもりも、なかったんだよ、ばか。私はとん、とん、とシリウスの背中をゆっくりと叩いた。 「…シリウス、今日帰りは?」 「え?…事件とかなにも起こらなかったら、19時」 「そっか、私20時過ぎると思う。…昨日の言葉、とりあえず今は取り消さないで。今夜、ちゃんと話そう」 120728 back うろこのなみだ next |