「あ、僕、明日からしばらく来なくなりますからー」
「…仕事?」
「えぇ、ちょっと大詰めで泊り込みのようです。あぁ、今回は一体何日かかることやら!」
「最近よく来てたのにね。サボってたんだ?」
「まさか!こう、仕事で疲れたこの身体を癒すために君のところにですねー」
「あぁ、分かったもういいよ」

長くなりそうだったレインの話をぶつりと切らせるとそのままお茶碗のごはんを口の中に掻き込んだ。そのまま手を合わせてごちそうさま、と合掌をするとさっさと自分の分の食器を流し台まで運ぶ。レインも同時に食事を終えたらしく、私と同様合掌を終えると食器を持って流し台までやってきた。食事の後片付けは二人で行うのが日課なのだが今日は違った。どういうわけか、レインが急に後ろからすっぽりと私を抱きしめてきたのである。

「…何なの」
「すみませんー、今回のはわりと重要なやつで、手を抜けないんですー。なるべく早く終わらせてきますからねー」
「…だから、何なのってば」
君、今日、元気なさげでしたからー」

よしよしと頭を撫でられながらそう告げられて、思わず食器を洗っていた手を止めてしまった。確かに模試の結果を見て落ち込んではいたけれど、それをレインの前に出したつもりは全くない。むしろ隠し通せたかと思っていた。こういうのがやはり大人と子供の違いなのだろうか、そんなことを思いながら食器洗いを再開させる。

「何があったんです?」
「…何もないよ」
「…僕には言いづらいことですかー?」
「だから、何もないってば!」

蛇口を捻って水を止めながらそう言った途端、しまったこれなら何かがあったと言っているようなものじゃないかと肩を強張らせた。別に隠そうというつもりはないし、これからもお付き合いを続けていくのなら私の進学のことは避けては通れない道だろう。けれど落ち込んでるからといって恋人に慰めてもらうというその行為はどうしても嫌だった。私のちっぽけなプライドである。いづれこの現状を報告する時が来るだろうし、その時はそう遠くはないだろう。けれど今、レインに全てを話すことはどうしてもできなかった。まだ、まだ駄目だ。早すぎる。大した根拠などあるはずないのにそのように思っている自分がいた。

レインは蛇口に手を置いたまま微動だにしなくなった私を一度強く抱きしめた。背中に感じるあたたかい温もりは、確かに私を愛してくれている。心配してくれている。けれどそれに寄りかかれるだけの度胸が、勇気が、私にはまだなかった。

レインはふと私から腕を解くと、最後にぽんぽんと私の頭を軽く叩いて無言のままリビングへと消えていった。ちらと彼を窺うと一瞬目が合って、こぼれるような苦笑を向けられる。私はレインに叩かれた頭のてっぺんのぬくもりを確かめるようにそっと撫でて、唇をかみ締めた。ごめん、ごめんねレイン。私はまだまだ大人になれないよ。


***


「先輩、お昼休憩どうぞ」
「あぁ、ありがとうございますー。そっちの進み具合はどうですか、円君?」
「まぁまぁってとこです」

円君が買ってきてくれたコンビニのパンの袋を開けて、もそりとそれに食いついた。研究所に引きこもって今日で丸三日だ、そろそろ手作りの食事が恋しくなってくる。自分で作ろうと思えば作れるものの、材料を買ってくる工程が面倒であり、そんなことに時間を費やさないで早く研究を終わらせたいという思いが強いため実行にはできていなかった。早く研究を終わらせて、家に帰って、君の家に行って彼女の料理が食べたい。

「あー…でも、確か今って考査前ですねー…」
「は?」
「あ、いえ、こっちの話ですー」

君は自分がいないと、途端に料理の手を抜きたがる。長期のテスト前だとなおさらだ。いつもこういう時は君の勉強時間の確保とちゃんとした食事を取らせるために自分が食事を作るのだが、今回はそうもいかない。ちゃんと彼女は食べているだろうか、下手すれば三食おにぎりになっているかもしれない。

「……、…」

携帯を手に取り君のナンバーへと焦点を合わせるものの、電話をかけるには少々戸惑われて結局なにもしないまま携帯を閉じた。君と会った最後の日、あの時少し元気がなかった彼女にしてしまった振る舞いを少しだけ後悔している。いくらか予想はできていた。おそらく成績のことか友人のことだろう。バイトや学校自体のことに関しては話すけれど、その二つについては彼女はなかなか口を割らないことに気づいていた。確かに自分には関係ない事項であるし、デリケートな部分であるからやたらと首を突っ込むのは躊躇される。けれどだからといって無視はできないものなのだ。

あの日君が何かを隠そうとしていることは考えなくても分かった。それが一体何なのかは分からなかったけれど、きっと自分には隠しておきたいことなのだろうということも分かっていた。それでも何があったのかと無理に聞き出そうとしたのは、頼ってほしいという、自分勝手な願望があったからだ。君がそう簡単に他人を信頼しないことも、無意識に自分と距離を取っていることも知っている。けれどやはり、少しだけ、寂しいのだ。そんなに自分は頼りないのかと、もっといろんなことを話してくれないのかと。しかし所詮、それも自分勝手なわがままだ。けれど知っていてほしい、君には自分がいるということを。いつでも寄りかかってきてもいいのだということを。彼女を愛しているということを。

「レインさーん!お昼終わったらでいいのでちょっと来てくれますかー!」
「はいはーい、今行きますよー」

二つ目の甘いパンの袋を破り、大口で三回で食べきった。空となったパンの袋をゴミ箱に放り投げると、しばらく携帯を見つめるけれどやがてそれを白衣のポケットに滑らせる。明日、勉強の邪魔にならない夕方くらいに一度連絡をしてみようと思いながら、コンピューターのプログラムに苦戦しているらしい部下のところへと向かった。その足取りは、自分が思っていたよりも、軽い。



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