「もうちょっと上げないと…少し厳しいぞ」
「…はい」
「まぁ引きずらずに次頑張れ、再来週の模試な」
「はい、…ありがとうございました」

頭を下げて職員室から出て行くが、その足取りは重かった。先月の模試の結果を持っている右手が震える。下を向いたら涙が零れそうで、天井を仰ぎながらゆっくりと深呼吸をした。吸って、吐いて、また吸って。脇をすり抜けていく生徒に不審な目を向けられたけれど気にしない。それを何度か繰り返し視線を前に戻せるようになってから、教室へと足先を向けた。

今日はバイトを入れていないのでこの後家に直帰して、適当にご飯を作って、お風呂に入って、勉強をして寝よう。この模試の結果から逃げるようにこの後の予定を立てると、誰もいない教室から自分の鞄だけを手にとって玄関へと向かった。レインは今朝慌てたようにして出て行ったのでたぶん今日は来ないはずだ。仕事が立て込んでいるわけではないと思うのだが、今朝携帯で誰かと話しているときに奇声を上げているのを聞いたので仕事でなにかミスでもあったのだろう。あの慌て具合は尋常じゃなかったもんなぁと今朝のレインを思い出してくすりと笑みを零した。

学校から徒歩で十分、なかなか近場にある自宅に帰るとそこには予想に反してレインがいた。しかもソファーでうたた寝をしているのだから驚きだ、レインが昼寝をしているところなど見たことがない。私はそうっとリビングを通り過ぎて自室に鞄を置くと、制服のままリビングに戻ってきた。珍しい、レインがこんな風に寝てるなんて。

(疲れたのかな…うわ、睫なっがーい。…にしてもほんっと童顔だなぁこの人…)

まじまじと覗き込みながらそうやってレインを観察していると、ふと先ほどまで落ち込んでいたことを思い出してくしゃりと顔を歪ませる。いないと思っていたレインがいて、嬉しい。すごく嬉しい。一瞬でも嫌なことを忘れてしまうくらい、レインの隣にいるのは楽しい。けれど今日だけは駄目だ。先月の模試の結果、再来週の模試、担任の言葉といろんなものが頭の中をぐるぐると駆け回っている。まだ整理が全然追いついていなかった。考えることはたくさんあるのにそもそも現実を受け入れることを身体が拒否していた。今夜レインと一緒にいれたら、と思わないわけではない。けれどそうしたら甘えてしまう、頼ってしまう。一度寄りかかると二度と自分では起き上がれないような気がして、それだけはいけないのだとなけなしの理性がそう告げていた。

「…レイン」
「ん…君?あれ、おかえりなさい…今何時ですかー?」
「五時過ぎたところ。…レイン、ごめん、今日は帰って」
「…急に、どうしたんですか」

小さく肩を揺すって名前を呼ぶと、案外簡単にレインは目を開けた。レインは私の帰って、という言葉にきょとんとしたように目を瞬かせ、途端に心配そうな表情になる。私の左頬に伸ばされかけたレインの右腕を左手でやんわりと押しとどめ、もう一度「ごめん、帰ってほしいんだ」と告げた。

「ひとりになりたいから、帰って。お願い」
「…君、」
「ごめんレイン、ごめん、帰って。…出てって」
君」
「…名前、呼ばないでよ」
「呼びますよ。たとえ君が嫌がったとしても呼びます」
「……」
「ねぇ君、どうしたんです?なにがあったんですか?」
「…帰ってよ、レイン…」

帰って。この家から出てって。顔を見せないで。甘えてしまいそうになるから。レインに酷いことを言っているのは分かっている、けれどこれは私の意地だった。やめてよ、まだここで吐き出すわけにはいかないの、まだ甘えるわけにはいかないの。これから来年の春までに、もっとつらい時期があるはずなのだ。今ここで甘えてしまったら、その時はどうすればいい。一人で立ち上がれなくなってしまう。

レインはまっすぐに私を見ていて、それが稀である真剣な表情だということに気付いた途端なんとか保っていた微笑がくしゃりと崩れて、口元が震えだした。レインは私の言葉など聞く素振りは全くなく、もう一度、今度は恐る恐るといったように彼の右腕が私の左頬に伸ばされる。今度は、振り払わなかった。

君、僕はそんなに、頼りないですか?」
「……」
「…沈黙が肯定ならば、それはちょっと酷い話ですねー。これでも僕、あなたより数年も長く生きてるんですよ?女の子一人さえ支えられない、柔な男になったつもりはないんですけどねー」
「…そんな、つもり、は、」
「はい、君にそんなつもりがないことくらい分かってます。でも、後半は本当ですよ?…君、僕はずっとずっと、待ってたんですよ。あなたが僕に寄り掛かってくれるのを。なんのための恋人なんです?僕とは寂しさを紛らわせるだけの薄っぺらな関係だとでも思ってたんですか?僕はそうは思いませんよ、お互いに苦しいときにこそ支えあうのが、愛し合うってことじゃないですかね」
「…でも、私、一人で…立てなくなっちゃうよ…」
「一人で頑張らなくていいんですよ、そもそも一人で立ち続けていられる人間なんていないんですから。僕はいつも君に支えられています。きっとあなたが思っている以上にです。…もっと肩の力を抜いてください、僕に少しでいいから荷物を預けてください。秘密にされるのが、一番つらいです」

レインはそう言って苦笑を漏らすと、そっと私の腕を引いてすっぽりと私を覆うように抱きしめた。ソファーがギシリと軋む音を立てて沈む。身長はそう変わらないはずなのに、私のものとは全く違う胸板に顔を押し付けられた。甘い、匂いがする。レインの匂いだ。じわりと視界が滲んで、急きたてるように唇から言葉が溢れ出す。

「レイン、ごめん、ごめんなさい。言えなかったんだよ、言いたかったよ、でも言えなかったの。言えたらどんなに楽だろうって思った、でも怖くて、情けなくて、勇気がなくて、言えなかったんだ」
「分かってますよ。…君、話してくれたら、嬉しいです」

ぎゅっと強く抱きしめられてほろりと涙が瞼から零れ落ちる。まるでこの愛と優しさに満ちている抱擁に、私の心も涙腺もなにもかもが溶かされたみたいだった。



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