da capo
説明はされていたけれど、機会も理由もなかったのでいままで訪ねたことはなかった。所長は話しかけづらいし、奥さんにもお世話になりっぱなしなのでこれ以上のことを尋ねるのは気が引ける。頼りにしたい金造も、こんな日に限って夜勤らしい。あぁ、やはり柔造さんしかいないのだ。
私は数分前から柔造さんの部屋の前でノックをしようと腕をあげて、しかし勇気が出ずに下げてを繰り返していた。片手に持つノートパソコンとケーブル線は重く、いい加減心を決めなければいつまで経ってもこの状況は進歩しない。引き返すほどの時間の猶予はない、明日は私が夜勤の日なので、やるとしたら今日しかないのだ。いけ、いくんだ、私。
「?お前なにしとん?」
「じいいい柔造さんっ?!あ、あのっ、あのですね、あのっ、」
「え?!な、何なん?落ち着きぃや、」
心を決めてドアをノックしようとした瞬間、内側からドアが開いて柔造さんが顔を出した。私は急なことに驚いて片手をあわあわとせわしなく動かしつつ、ドアの前にいた理由を説明しようとするが「あの」という言葉しか出てこなかった。日本語話しなさいよ、私。
勿論柔造さんはそんな私に驚き、ひとまず中途半端に開けたドアから出てきてパタンと閉めた。私服だ、と思う。ラフなティーシャツにジャージというまさに生活感あふれる格好であったが、仕事では見れないそんな素の姿になんだか恥ずかしく思ってふいと目を逸らした。やはりイケメンは何を着ても似合うらしい。
「…パソコン?」
「あ、は、はい。あの、無線はなさそうだったので、有線…どこかの、お借りしてもいいですか?」
「あー、俺と金造の部屋なら有線あるわ。金造の部屋は…アイツ、今夜勤でえんしなぁ。今…俺の部屋でええなら、使ってええよ」
「え、…い、いいんですか?」
「俺はええけど」
ドアを開けられて、入り、と促される。インターネットの有線を貸してもらうためだとはいえ、やはり男の人の部屋に入るのは少し勇気がいることだった。しかも柔造さんの部屋である。
「見られて困るもんはないけど、あんま見んといてなぁ。掃除とかマメにせんほうやさかい」
「い、いえ、私のほうこそ急にごめんなさい…」
「こっちこそ堪忍え、男の部屋にしか有線なくて」
そう言いながら柔造さんは自身のパソコンからインターネットのケーブル線を引きぬき、部屋の中心でパソコンを抱えてぽつんと立っている私を手招きした。どうやら机を貸してくれるらしい。椅子をひかれたのでそこに腰を下ろすと、私のパソコンに線を繋いでくれた。
「俺、部屋出てるからなんかあったら呼んでな」
「あ…ただの調べ物するだけなので、私はかまいませんよ?」
「え、…あー、いや、…別に、に気ぃ遣っとるわけやないえ、保険や保険」
「ほ、保険?」
「こっちの話や」
居間におるから終わったら声かけてな、そう告げて柔造さんは部屋を出て行った。パタンとドアが閉められた途端に、柔造さんの部屋にひとりにされたということがなんだか落ち着かないように思えてくる。柔造さんの部屋に彼と2人きりという状況もすごく困るけれど、この置き去りにされるのも、困る。
あんまり見るなと言われたけれど、パソコンが立ち上がるまでの間、ぐるりと柔造さんの部屋を見渡した。机とベッドと本棚と、チェストっぽいものがひとつ。ベッドの上には男性向けの雑誌が数冊散らばっていて、まさに男の人の部屋といった感じだった。マメに掃除はしてないと言っていたが、これはかなり綺麗にしている部類に入るのではないかと思う。
パソコンの立ち上がる音がして画面に目を向けると、ふとそのパソコンに半分ほど隠れるような位置にあった写真立てが目に入った。子供が映っている。思わず手にとって近くまで持ってきて見てしまうけれど、瞬間、ドキリと心臓が鳴った。子供のころの、柔造さん。一緒に映っているのは、亡くなっているらしいお兄さんと。
「…蝮さん、だ」
かわいい、という声がぽろりと唇からこぼれた。無邪気に笑う、幼い子供が数人。現在の面影がある柔造さんの後ろに、恥じらうように半分ほど隠れている女の子。白い肌と色素の薄い髪で瞬時に分かった。蝮さんだ。
彼女の宝生家とは兄弟のようなものだと、金造くんから聞いていた。こんな幼いときから、ずっと一緒なんだ。ずっと。
「…私なんて、つい数日前に知り合ったばかり…なのになぁ」
羨ましいとかずるいだとか、そういうものではなかった。けれど私が知らない柔造さんを蝮さんは知っていて、ずっと柔造さんと一緒に居たのだと思うと、沸々と何かが湧き上がってくるような感じがする。何かは分からないけれど、もぞもぞするような、何かが確かに心の中に溢れてきているような気がした。
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