da capo


「どうです?」
「日当たりも間取りも…やっぱり、こっちのほうがいいです」
「えぇ、オススメはこっちですね」
「じゃあ、決まりで」
「…ええんですか、えらい即決ですけど」
「…ちょっと、急いでて」

物件案内をしてくれたお姉さんに苦笑を漏らしながらそう告げると、なにかを感じ取ったのか、お姉さんはそれ以上はなにも言ってこなかった。その場でいくつかの書類にサインをして印鑑を押すと、もう新しい住居は決まったことになる。前のアパートより大分出張所に近く、立地条件や間取りにしては家賃は安いほうだと思った。明日の夕方にでも荷物を運びいれてしまえば、早々と引っ越しは終わる。志摩家での暮らしも、もう終わりなのだ。

「引っ越しサービスありますけど、利用なさいますか?」
「お、お願いします」
「今はどちらにお住まいで?」
「…知り合いの、家に」

時間や場所、変更があった場合の連絡先を確認するとお姉さんは私に鍵を渡して帰って行った。こんな夕方の中途半端な時間だ、仕事のうちとはいえ彼女に少し申し訳なく思う。渡されたばかりの鍵でドアを閉めると、前のアパートのようなガチャリといううるさい音はせず、静かに施錠される音が聞こえた。

出張所から近いということは、すなわち志摩家からもそう遠くはないということだ。少し距離はあるけれど志摩家まで歩くことを決め、なんとなくの方向へと足先を向けた。

何も変わりがなければ荷物の移動は明日の夕方になるだろう。予想以上に駆け足の引っ越しになってしまったため、まだ所長や奥さんにはなにも言っていないが、ただえさえ始まりが急だったのだ、終わりまでもが急であったとしてもなんやらおかしくなはいはずだ。

たった数日。数日だけれどいろんなことがあったと記憶を掘り返しながら、志摩家への道を辿った。夕日に照らされた細い路地を歩くのは、少し、さみしかった。


***


「…明日か。急やなぁ」
「は、はい。…すみません、最後まで迷惑かけっぱなしで…」
「気にせんでええ、新しい家見つかったんなら、もうここにおる必要はないしな」

新しい住居が見つかったこと、そして明日の夕方に荷物の移動をすることを所長に告げると、所長は少しだけさみしそうに微笑んだ気がした。部屋着のゆったりとした着物を着ている所長は、出張所で見かけるよりも物腰が大分やわらかく感じる。正座をしたまま指をついと揃え、深く頭を下げてお礼を告げると、頭あげぇ、と所長の優しい声が聞こえた。

「楽しかったわ、こっちも」
「…私、なんにもしてませんよ?」
「あぁ、が、ていうより息子らがおもろかったわ」
「はあ」
「もうちょいおってくれても、うちはええんやけどな」
「いえ、そんなわけには…」
「おん、分かっとる。…数日、難儀かけたな、」
「そ、それ、は…こちらが、」

おん、と所長の優しい声が聞こえた。たった数日。数日だけれど、この人の出張所では見れない姿をいくつも見てきた。父親のように大きく優しく、それに何度心を揺さぶられたか分からない。こんな人が父親だったらと、幾度も思った。

「あーもう、泣きそうな顔しとるやないか」
「ご、ごめんな、さい」
「謝らんでええって。…またなんかあったら、うち来ぃや。嫁も喜ぶ」
「は、い…っ」
「毎日ちゃんと家帰って、ご飯食ぅて…あぁ、段ボールもちゃんと片付けぇや」
「…、…はい」

まるで母親のようにあれこれ言われ、そして柔造さんから聞いたのだろう、段ボールのことも言われ、私は口をもごもごと動かしながら返事をした。これから長らく京都に住みつくのだ、今回の引っ越しが終わったら、ちゃんと段ボールは片付けることに決める。

最後に所長に「数日有難うな、」と優しく告げられながら頭を撫でられ、私はやはり堪えられずに、所長の前だというのにぽろぽろと涙を零してしまっていた。



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