da capo
「えっさん、もう出てくん?!早ない?」
「しゃあないやん、無茶言うたらあかんえ廉造。でもまぁ、ちゃんおらんくなると寂しくなるわぁ」
「ありがとうございます、…急ですみません」
「新しいとこ見つかったん?」
「うん」
夕食のときに奥さんと廉造くん、そして金造にそう告げるとそれぞれ反応を返してくれる。ちなみに今夜は柔造さんが夜勤らしく、彼はこの場にいなかった。夕食前に話してあった所長は黙々と食事を続けているが、それ以外の3人は手を止めて私の別れを惜しんでくれる。素直にうれしいと、思った。
「荷物の移動は?」
「明日。不動産屋の人が手伝ってくれるみたい」
「夜か?」
「いや、夕方。夕食前には、お暇させていただきます」
金造と会話を続けながら遠まわしに明日の夕食はいらないと言うと、奥さんは非常に残念がってくれたけれどもしぶしぶといったように了承の意を告げた。数日とはいえ奥さんにはたくさんのことでお世話になったのだ、後日お礼をしなくてはと思う。
「ほんだら、俺帰ってきたら舞さんおらんのかぁ…寂しいわぁ」
「廉造くんも、数日だったけどありがとう」
「いやいや。なんなら今日一緒に寝ます?」
「アホか!」
私が返事をする前に、廉造くんの隣で食事をしていた金造が彼の後頭部をはたいた。私は乾いた笑いを漏らすものの、ご両親の前でも煩悩をさらけ出している廉造くんには一種の尊敬さえ覚える。最初から最後まで、彼はいろんな意味ですごいと思った。
この賑やかな食事も最後かと思うとごはんはいつもよりおいしく感じた。ただ、最後だというのに、柔造さんの席がぽっかりと明いているのはなんだか落ち着かなかった。彼は夜勤だというので次に顔を合わせるのはおそらく出張所になるだろう。せめて最後に、この彼の家で顔を見ておきたかったと、少し我が儘なことを思った。
***
「あ、これで最後です」
「これで?!さん、荷物少ないんですね」
「えぇ、まぁ」
苦笑を漏らしながら、昨日に引き続き引っ越しを手伝ってくれているお姉さんに軽い段ボールを渡した。私もよいしょ、と段ボールを抱えると彼女と少し長い志摩家の廊下を歩く。ここを通るのも最後になるのかもしれないと思うと、たった数日ではあるが、大分寂しがっている自分に気付いた。
本当に志摩家はとてもいい家庭で、けれどだからこそ、早くここを離れなければと思った。私にとって志摩家という場所で短期間であれど過ごせたことは、幸せすぎて心地よすぎて、けれど同時に苦しくもあったのだ。幼いころから抱いていた幻影が現実に現れて、手を伸ばせば掴めるあたたかさがそこにはあって。
どうして私にはないのだろうと、思って、しまった。
普通の家庭。他人から見たら、ごく普通で一般的な家庭。それが私にはとてつもなくまぶしくて、羨ましくて仕方なかった。所長や柔造さん、金造、廉造くんの日常が羨ましかったのだ。それは見ていてすこし、せつなかった。
(…素敵な、おうちだったなぁ)
だからこそ早く出ていかなければと思った。この生活に慣れてしまう前に。憧れは憧れのままであるべきだと。
奥さんに最後の挨拶を告げると、借りていた鍵を返して外に出た。奥さん以外はまだだれも帰ってきていない時間帯なので、ひとり静かに玄関を出る。これで、志摩家の生活は終わりなのだと一度志摩家を振り返った。所長や柔造さん、金造とは明日からも出張所で会えるけれど、奥さんや廉造くんとはこれでお別れだ。お別れとは言ってもこれから会うことがないとは限らないので、そう湿っぽいものではないのだが。
「行きましょうか」
「は、はい」
最後にもう一度だけ、と思いながら志摩家を振り返る。京都らしい風情のある日本家屋、金造や柔造さんが育った場所。廊下の柱の低い部分には、ペンで落書きされた跡や、身長を刻んだ傷をたまに見かけた。たくさんの子供たちが育った軌跡がそこにはあって、金造や柔造さんの名前を見つける度にくすりと笑みを零したものだ。
そして、やはり柔造さんには会えなかったな、と最後に思った。携帯のアドレスも知らないので連絡することも叶わない。事後報告になってしまうが、明日出張所で彼を探してお礼を告げなければと思う。
さん、とお姉さんに促されて慌てて車に乗ると、まっすぐ新しい住居へと向かった。明かりがついていない部屋に入るのは久しぶりで、少しだけ、胸が痛む。これからは帰っても、明かりもなければあたたかいご飯もおかえりの返事もないのだ。やはり志摩家の生活に慣れ始めていた私にとって、それは少し寂しいものだった。また、一人暮らしが始まる。
荷物を運び入れて大家さんに挨拶を済まし、いくつかの書類にサインをすると引っ越し作業は難無く終わった。世話を焼いてくれたお姉さんと別れ、ひとりきりの部屋に戻るとその静寂が冷たく心に響く。ごはんを作って、明日の準備をして、あぁ、段ボールも片付けなければ。
最初に戻っただけ。志摩家で暮らしはじめる前に、戻っただけだ。ひとり暮らしは慣れっこで、これからはこのアパートで頑張っていくのだ。そう自分に言い気かせて、奥さんから教えてもらったレシピで簡単に夕食を作った。
それでもやはり、ひとりで食べる奥さんから教わった料理は、なんだか寂しい味がした。
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