da capo
「…え、出てったん?ちょ、聞いてないで?!」
「えっ?今日の夕方にって…あぁ、そういや柔兄夜勤やったっけ、昨日」
「昨日?!えらい急やったんやな、ていうかなんで誰も俺に言わんのや…」
「てっきりお父が言うかと思ってん」
「聞いとらん」
家に帰ったらがいなかった。一緒に帰ろうと彼女の部署に行けば今日は早退したのだと言われ、体調でも悪いのかと慌てて家に帰ってきたらいなかった。客間の前で呆然と立ち尽くす俺を見つけた金造が、なら出てったやん、と俺に告げたのは立ち尽くしてから一体どれくらいの時間が経っていたのだろうか。
出て行った。それはすなわち、は新しい住居を見つけたということ。つい最近パソコンのケーブルを貸してやったので近々引っ越すだろうとは思っていたのだが、いささか急すぎやしないだろうか。なんということだ、と溜息をつきながら額を押さえる。
「なんや困ることでもあったん?」
「…大問題や」
「えっ?!」
「あー、なんでもあらへんさかい金造先にシャワー入ってきぃ」
一瞬不安そうな顔をした金造にひらひらと手を振って大丈夫だと告げると、金造は素直に「おん、ほんだらシャワーいってくるわ…」とずこずこと引き下がった。風呂場に向かう弟の背中が心配そうにこちらを気にしているのが分かり、それが面白くてふっと笑みを零す。
「…こんな青臭いこと、してる場合やないんよなぁ」
完全に金造が見えなったのを確認し、つい昨日までがいた客間を見ながらそうぽつりと呟いた。もう自分もいい歳である、恋愛に対して後手後手に回っているなんてらしくないと思う。さて、どうしたものかと明日のことを考えながら自分の部屋へと向かった。
***
いくぞ、いくぞ、と意気込むものの、やはり持ち上げた腕をドアに当てる前に下ろしてしまうという行為を幾度も繰り返していた。これでは前と同じではないかと思いながらも、やはりノックをすることができずにいる。柔造さんの執務室には何時誰が来てもおかしくはないので、誰かに不審がられる前にさっさと済ませてしまわなくてはいけないのに。
「…よし、」
「なにがよし、なんや?」
「わあっ?!」
もう何度目か分からない意気込みを唱えて腕を上げるものの、今回もその次の行為に及ぶことはなかった。背後から声をかけられて慌てて振り向くと、声から予想していた通り、そこには目的の人物である柔造さんがいる。
「お、驚かさないでください…っ!」
「そっちこそ驚かすなや、俺の執務室の前にウロウロしとる人おるって聞いて来たら…やん」
「えっ?!あ、す、すみません!」
「ええよ、そろそろ戻らなあかんと思っとったし。…書類、やあらへんよな?」
私の手を見て柔造さんはそう言った。私がこくりと頷くと、まぁとりあえず入り、と彼の執務室に促される。志摩家の柔造さんの部屋にいれてもらった時と同じ状況だ、と思いながら素直にそれに従った。
「昨日帰ったらおらんかったで吃驚したわ」
「あ、連絡したかったんですけど…アドレス知らないし、伝言まではいいかなと思いまして、」
「おん、気にしてへん。にしてもまた急な引っ越しやったなぁ、どうや、新しいとこは」
「大丈夫です」
「…何が大丈夫なんや?」
「え、…いろいろ?」
つい口をついで大丈夫です、と言ってしまったけれど確かに柔造さんからの言葉に対する正しい返事ではないように思える。ひとり暮らしは慣れているので、料理も洗濯もなにひとつ困ることはなかった。ただ、志摩家が賑やかだったからこそ寂しさはしとしとと積ってゆくけれど。けれどそんなことを柔造さんに言うつもりはなく、その必要性もないのは明らかであった。にこりと笑みを零して、深く頭を下げる。
「数日でしたが、ありがとうございました。あの、お家で挨拶できなかったので」
「…頭上げぇ、」
「は、…ぶっ」
はい、と続けようとしたものの、顔を上げた途端に柔造さんに腕を取られて、彼の胸に顔を突っ込むような形になってしまったので最後までは言えなかった。その代わりに可愛くともなんともない声が漏れる。そのまま頭と腰に手を添えられ、まるで柔造さんが私を抱きしめているような体制になった。私はこの行動の意味が分からずされるがままになっていると、柔造さんは「、」と私の名前を呼ぶ。
「は、はい?」
「…あんな、」
「はい」
「……、…また、いつでも来ぃや」
「え?あ、はいっ!所長にもそう言っていただけたので、また機会があれば、是非!」
そろりと身体を離されたので柔造さんの顔を見ながらそう告げると、彼はなにやら複雑そうな表情をしていた。なぜだろう。結局、どうして身体を引き寄せられたのかは分からなかったけれど、抱きしめられたみたいで少しドキドキしたなぁと思いながら柔造さんの執務室を後にした。
志摩家で過ごした数日が本当の意味で終わりを告げたのだと、ふと思った。
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